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東南アジア史(第8回 東南アジアのイスラム化とヨーロッパ) - 歴史研究所
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さて、元の侵攻という危機をのり切ったマジャパイト王国は、ラージャサナガラ王(位1350~1389... さて、元の侵攻という危機をのり切ったマジャパイト王国は、ラージャサナガラ王(位1350~1389年)と、宰相カジャマダの二人三脚でジャワのみならず、マレー半島からカリマンタン島南まで、今のインドネシアよりも広い領域を支配することに成功しました。 ところが、これもまた交易国家として隆盛し、一方で交易の衰退で国力を失っていきます。今回の原因は、自分の領土であるマレー半島の各都市が独自に交易を始めてしまい、シェア争いに負けるハメになったからです(もちろん、それだけが原因では無いでしょうが)。 その中でも特に、1400年頃にスマトラ島のバレンバン王国の王子バラメシュバラが、マレー半島に建国したマラッカ王国(ムラカ王国)が国力を多く持ち、マジャパヒトは貿易国の地位を失ってしまいました。この国は、マジャパヒトとタイのアユタヤ朝、この2つの影響下から脱却するため、ちょうどその頃、中国の大国・明の永楽帝が