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お船の方|米沢・戦国 武士[もののふ]の時代
弘治3年(1557)与板城主直江景綱の娘として生まれる。 上野国総社長尾顕吉の子与兵衛信綱を婿に迎える。 ... 弘治3年(1557)与板城主直江景綱の娘として生まれる。 上野国総社長尾顕吉の子与兵衛信綱を婿に迎える。 信綱は景勝の馬廻大将、奉行職として、景勝を支える重職にありました。ところが御館の乱のもつれから殺害されてしまい、名家直江家の断絶を惜しんだ景勝が、兼続にお船の方を配し、直江家を継がせました。天正9年(1581)お船の方25才、兼続22才の時のことです。 兼続とお船の方夫婦の間には一男二女がありましたが、いずれも早世しています。 元和5年(1619)、江戸鱗屋敷で兼続死去。お船の方は、夫の亡骸を菩提寺である徳昌寺に埋葬し、年々の法要を手厚く執り行いました。また、高野山金剛峯寺に、宝楼閣瑜祇塔を建立し、その壁に夫兼続と息子平八の肖像画を描かせ、供養したといわれています。 彼女は兼続の意志を継ぎ、『文選』の再刊も果たした。書物を愛する夫の良き理解者でもあったといわれています。 翌寛永14年(