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西陣南帝(後南朝最期の光芒)
旧南朝皇胤が最期の光を放ったのは1392年の南北朝合一 から実に79年後の応仁の乱に際してのことだ... 旧南朝皇胤が最期の光を放ったのは1392年の南北朝合一 から実に79年後の応仁の乱に際してのことだった。 細川勝元率いる東軍が天皇及び将軍という公武の最高の権威 である後土御門天皇・足利義政を自軍に引き込むことに成功 すると、将軍の弟である足利義視を擁している山名宗全率いる 西軍が東軍の天皇・将軍の権威に対抗するために南朝皇胤を 擁立したのである。 この時期の南朝皇胤の動向としては、まず文明元(1469)年11月に 南方蜂起が伝えられた。それによると、その者たちは兄弟で蜂起の 場所は吉野奥と熊野であり、十方に宣言し年号を明応元年として いるというものであった。その実態については不明であるが、年号を 定めたとの情報も入っていることもあり、これまでにない実態を備えた 蜂起であった可能性が高い。続いて文明2(1470)年2月末に南朝 皇胤は紀伊国有田郡の宇恵左衛門という者のところで旗上し、 翌3