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後醍醐天皇
●両統迭立 1172年、朝廷の実権を握っていた後嵯峨上皇は後継者を指名しないまま死去しました。 朝廷... ●両統迭立 1172年、朝廷の実権を握っていた後嵯峨上皇は後継者を指名しないまま死去しました。 朝廷内では皇位後継者をめぐる内紛が起こり、朝廷は持明院統と大覚寺統に分裂し、140年もの間争うことになります。1317年、窮した朝廷が幕府に調停(シャレではない)を依頼した結果、幕府の折衷案を受け入れることになります。 両統迭立(りょうとうてつりつ)とは皇位を持明院統と大覚寺統という二つの皇統が交互に継ぐことを言います。 この部分は大変分かりづらいので、左の継承図を見ながら我慢して読んで下さい。数字は皇位継承順です。 後嵯峨天皇は譲位して長男の後深草天皇を即位させましたが、次男の亀山天皇を盲愛し後深草天皇を無理矢理退位させ、亀山天皇を即位させました。後嵯峨上皇はさらに亀山天皇の皇太子として、亀山の皇子(後宇多天皇)を立てたのです。 後嵯峨法皇は死の直前、所領の分配をしたのみで皇位に関しては本意を