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人間は死んでいる時間のほうが長い - Zerobase Journal
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人間は死んでいる時間のほうが長い - Zerobase Journal
〔この文章は、推敲された論文ではなく、一人語りを文字起こししたものです〕 人間は、生きているよりも... 〔この文章は、推敲された論文ではなく、一人語りを文字起こししたものです〕 人間は、生きているよりも、死んでいる時間のほうが長い。 「我々は生きている時間よりも死んでいる時間のほうが長い」という着想から「死者こそ主体である」と唱えた思想家っているかな?「死者の存在論」を考えたい気分。 ここでの「主体」の意味は「政治的に承認され、尊厳を認められるべき存在者」という独特のニュアンス。 死者こそ主体なので、自殺は罪に関わらないし、墓参りは実際的なコミュニケーションになる。あ、沖縄の生前葬はヒントか。 「死者こそ主体」ならば、靖国神社に合祀された戦死者を追悼し、彼らの遺志である国家としての供養は当然である、という保守的な話になる。 「死者こそ主体・存在者である」という思想は非宗教的に展開できると思う。死者を弔うのは主体間の実際的なコミュニケーションであって、存在しないものに関わる超越的な行為などでは