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前田護郎に関するfunaki_naotoのブックマーク (17)

  • 日本の教会についての一視点 - ブログ版『ユーリの部屋』

    2008年 1月 31日に届いた刊行物から、以下を紹介いたします。 財団法人日クリスチャンアカデミー機関誌『はなしあい』(2008年1・2月号 第491号) 巻頭のことばとしての、理事長シュペネマン・クラウス氏「他者のための教会」の部分要約です。 ・38年前に来日。日クリスチャンアカデミーが教会とはほとんど関係がなかったことに驚いた ・日の教会は閉鎖的であり、社会には関心がないと言われた ・「閉鎖的」=「他者を中に入れない」態度←社会学が組織化の程度の弱いグループの傾向に特徴づけるためによく使う言葉 ・教会の質に関する理解が根的に間違っていると、教会が社会に関心がなくなる ・プロテスタント教会は、救済に重点を置いて、人間の日常生活を罪の観点から否定的に見る傾向がある。健康、滋養、居住、休養、遊戯などは、一語でいえば、人間の幸福は「究極以前のもの」として神から人間に与えられた権利。

    日本の教会についての一視点 - ブログ版『ユーリの部屋』
  • 前田護郎主筆『聖書愛読』(15) - ブログ版『ユーリの部屋』

    ・第187号1979年(昭和54年)7月 「学ぶよろこびについて」(“かもめ”第99号(7月17日発行))(pp.5-6) 幼ないころからこうした素朴な知識欲がいろいろな分野で満たされて次第に知性が成長して行くのです。このような成長は単に知識が量的に増すだけでなく、個々の知識に連関性や継続性が備わりますと、全体として質的なはたらき、すなわち学問へと発展するものです。つねに未知の新しいものを求めて、それが与えられ、あるいは指し示されるよろこびをいつまでも持ちつづけたいものです。(中略) 未知のものを求めまた与えられるよろこびは未来に向かっていますが、過去に与えられたものの蓄積が再生されるよろこびも大切です。この未来と過去とにつながるふたつのよろこびに囲まれますと、現在学ぶよろこびがその広さと深さを増して来ます。学びは義務でなく特権であることがこの角度からもわかると思います。 ・第188号19

    前田護郎主筆『聖書愛読』(15) - ブログ版『ユーリの部屋』
  • 前田護郎主筆『聖書愛読』(14) - ブログ版『ユーリの部屋』

    昨日のラジオドイツ語講座応用編では、ニュルンベルクのクリスマス市の話ついでに、レープクーヘン(Lebkuchen)が出てきました。私には、この有名なドイツのお菓子にまつわる、おもしろい経験があります。 1988年12月のクリスマス前のことです。以前にも書きましたが、当時、大学院生だった私は、住み込みチューターとして、名古屋大学留学生寮で一人暮らしをしていました。そこへ、マンハイム近郊の街に住む一歳年下の双子のドイツ人ペンフレンドの片割れBirgitから、突然、半径12センチほどの大きさのレープクーヘンが、航空小包で届いたのです!別に頼んだわけでもありませんし、手紙にレープクーヘンのことを書いたわけでもありません。なぜ、急にそんな上等なものが贈られてきたのか、皆目検討もつかないまま、結局は、インドとオーストラリアの留学生達を誘って、紅茶を飲みながら、おいしくべてしまいました。 多分、Bir

    前田護郎主筆『聖書愛読』(14) - ブログ版『ユーリの部屋』
  • 前田護郎主筆『聖書愛読』(13) - ブログ版『ユーリの部屋』

    12月15日の午後、京都三条のカトリック河原町教会の隣にあるカトリック書店で、楽譜『バッハ・コラール前奏曲集』を一冊買いました。手持ちの教会曲集はあまりにも古くなり過ぎ、またレパートリーを増やす必要性を感じましたので。少しずつ、練習していこうと思います。しかし、カトリックのお店なのに、日基督教団の教会曲集を販売しているのも、おもしろい現象だと思いました。もっとも、もし記憶違いでなければ、以前、バプテスト系のヨルダン社でもカトリック系書籍を少し見かけたことがあります。マイノリティだと、自ずとエキュメニズム志向になるのかもしれませんね、販売戦略の点でも。 それはともかく、少なくとも十数年前ぐらいから、一般信徒の方は、個人レベルでお互いに学び合ったり、一緒に賛美歌を歌ったりしてきたのです。例えば、名古屋にいた頃、カトリック恵方町教会司祭でいらした後藤文雄神父さまも、私を神父館に快く受け入れてく

    前田護郎主筆『聖書愛読』(13) - ブログ版『ユーリの部屋』
  • 前田護郎主筆『聖書愛読』(12) - ブログ版『ユーリの部屋』

    何かとせわしない年末、至極平凡な暮らしの私にも、突発の出来事や、新たな片づけ物と依頼原稿などの用件が、次々と目白押しに起こります。 おとといの夕方、図書館と買い物から自転車で帰る途中、家の近くでご葬儀の準備をされているのに、偶然気づきました。よく見ると、どこかでなじみのあるお名前。(え?もしかして)と思って葬儀屋さんに尋ねてみると、中から、前の住居のお隣だった方のご長男が出て来られました。「はい、そうです。母もこれで一人きりになりますので、どうぞよろしくお願いします」との丁寧なご挨拶があり、こちらも驚きと恐縮と...。 急とはいえ、やはりこういうことは大事だと思い、主人の帰りも遅いので、黒スーツに着替えて、一人でお通夜に参列させていただきました。見知らぬご年配の方がほとんどでしたが、私にとっては、初めての土地に一人嫁いだ新居で、お隣さんとして、さりげないご親切をいただいた方でしたので。 例

    前田護郎主筆『聖書愛読』(12) - ブログ版『ユーリの部屋』
  • 前田護郎主筆『聖書愛読』(11) - ブログ版『ユーリの部屋』

    やはり前田護郎先生の文章は人気がありますね。リンクが早速入ると、こちらもうれしくなります。研究発表後の曰く言い難い疲れと違い、前田護郎先生の入力作業は、喜びと心地よい楽しみが伴うものです。 その前に、私の状況を少し書かせてくださいね。 昨夕は、大阪クリスチャンセンター50周年記念のクリスマス行事に招待され、美しい歌声を堪能しました。また、イスラエル旅行の写真をスクリーンで再現したものを見たり、同行した方達10人と親交を温めたりしました。イスラエル旅行は、帰国後に調べてみると、いろいろなグループが企画経営していますが、今から振り返っても、最もよい旅団で、最もよい時期(イスラエルの気候も、私自身の人生上も日程上も)と、最もよいガイドさんに恵まれたと思います。これはご挨拶ではなく、当にそうなのです。 そもそも、外での仕事がなくなる今年から、どのように過ごそうかと考えていた時、インターネット検索

    前田護郎主筆『聖書愛読』(11) - ブログ版『ユーリの部屋』
  • 前田護郎主筆『聖書愛読』(10) - ブログ版『ユーリの部屋』

    しばらくお休みしていたシリーズ、再開いたします。毎回、前田護郎先生シリーズを楽しみにリンクしてくださっていた皆様、お待たせいたしました。 数日前、教文館からのメールマガジンに、また前田護郎先生の選集『聖書の思想と言語』が紹介されていました。学生時代に、先生の『ことばと聖書』岩波書店(1963)を夢中になって読みました。その考え方に基づいて、マレーシア赴任後に気づいた問題意識から、縮小応用編としてマレーシアの聖書問題やマレー語聖書翻訳を調べ始めたのですが、くどくどと書き連ねたように、こんなに茨の道だったとは!マレー語は簡単な言語だと言われますけれども、マレー・イスラーム文化圏内で、ムスリム当局からの度重なる抑圧や干渉に耐えながら、きちんと専門的に正確に聖書に翻訳しようとなれば、これは一大事業です。また、問題は、一見簡単そうに見える物事の中に秘められている概念を、どこまで見抜き、深めていくかと

    前田護郎主筆『聖書愛読』(10) - ブログ版『ユーリの部屋』
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  • 前田護郎主筆『聖書愛読』(9) - ブログ版『ユーリの部屋』

    今日も、片づけ物に終始していました。日頃の運動不足がたたってか、だんだん、腕や背中の筋肉がだるくなってきました。でも、捨てるものは捨て、残すものは残し、ようやく見通しがつき、ある程度まとまりかけて、気持ちが落ち着いてきた感があります。茶道でよく「形から入る」といいますが、確かに道理です。あともう一息で終わらせた後、もっと大事な一仕事があります。そちらの方が心配と言えば心配ですが、何とか納得のいくよう仕上げたいと思います。 片づけながら考えていました。なぜ、こんなにいろいろとモノがたまってしまったのか、と。結局のところ、二十代半ばから三十代半ばにかけて、「多様性」や「個性」という流行り言葉に惑わされて、自分が何を求めてどのような方向に進むべきなのか充分に把握できなかったことと、自分に合わない不適切な環境で無理に順応しようと下手な労力を費やしていたことが原因かと思います。特に後者について、その

    前田護郎主筆『聖書愛読』(9) - ブログ版『ユーリの部屋』
  • 前田護郎主筆『聖書愛読』(8) - ブログ版『ユーリの部屋』

    毎日似たようなお話で退屈されている向きもおありかと思いますが、もうしばらくお待ちくださいね。 今日も、一日中、棚の整理に明け暮れていました。ばかりではなく、いろいろの紙でできた物の整理というわけです。手狭になって、必要な資料がすぐに取り出せなくなったため、緊急の片づけです。今やっておかないと、後でもっと苦労しそうなので...。 そうこうするうちに、学部生時代に手紙のやり取りをしていたドレスデンと旧ソ連のペンフレンドが、別に頼んだわけではなかったのに時々送ってくれた写真集やドレスデン紹介やヤルタ紹介のが出てきました。懐かしいです。こうして見ると、あの共産圏時代のことが、さまざまな感慨をもって思い出されます。言論や思想の自由が制限されていた彼、彼女達にとって、極東に住む日人の私との文通が一種の楽しみでもあり、同時に、自分達の住む国を紹介する義務感があったのだろうと思われます。私の方はと

    前田護郎主筆『聖書愛読』(8) - ブログ版『ユーリの部屋』
  • 前田護郎主筆『聖書愛読』(7) - ブログ版『ユーリの部屋』

    昨日は、ほぼ一日中、資料整理にかこつけて、棚の整理に明け暮れてしまいました。こんなことをしている場合じゃないのにって...。つくづく、前田先生のご著書から抜き書きを作っておいてよかったと思います。自分で言うのもなんですが、ブログにアナをあけないためにも、助かります。では、どうぞ。 ・第121号 1974年(昭和49年)1月「書斎だより」(p.8) 朝5時半のNHKでヒルティについての自分の声を聞く。10時から小諸の勤労者福祉センターで“救世主の実在”と題して話した。来月の学会発表の予告編でもある。十字架なしの空論に振り回される神学界は困りものであるが、平信徒の間に健全な福音が浸透するのはよろこばしい。(9月2日, 日曜). ・第124号 1974年(昭和49年)4月「書斎だより」(p.7-8) 夜はオランダのクイスベル教授をわが家に迎えた。(中略)これからもたびたび欧文で論文を出しなさい

    前田護郎主筆『聖書愛読』(7) - ブログ版『ユーリの部屋』
  • 前田護郎主筆『聖書愛読』(6) - ブログ版『ユーリの部屋』

    ここ数日、そしてこれから10日ほど、大変忙しくなりそうです。昨日は一日中家にこもり、六畳の部屋いっぱいに資料を広げて、整理をしていました。つい、座り込んで読み始めてしまい、夜には腰がだるくなってきました。あらゆる機をとらえてリサーチをし、それこそ先手仕事で文献も取り寄せているのですが、どのように考えをまとめたらよいのかは、いつも考えさせられるところです。基的な了解事項が必ずしも一致しない会合で、個別事例を述べるのは、結構難しいものです。 それから、昨日は『わだつみのこえ』冊子が届きました。すぐにでも読みたいのですが、それをすると、どんどん時間がなくなってくるので、お預けです。そうこうするうちに、積ん読状態になるのですね。子どもの頃、(どうして大人はすぐに物事を片づけないのだろう)など思っていましたが、単純な生活の子ども時代には想像のつかなかった時間の流れです。 こんなことにでもなろうかと

    前田護郎主筆『聖書愛読』(6) - ブログ版『ユーリの部屋』
  • 前田護郎主筆『聖書愛読』(5) - ブログ版『ユーリの部屋』

    最近、この「ユーリの部屋」のアクセス数が上がってきました。キーワード検索のおかげもあるのでしょうが、前田護郎先生がかつてズバリズバリと直言されていた内容が、どこかで多くの方々の心に届いているのかもしれないと思っています。以下にご紹介するものも、なかなかエスプリがきいていて、茶目っ気とユーモアもたっぷりです。今でも、こういう良心の塊のような大学の先生がもっと増えてほしいのですけれども。あ、私の置かれた環境が貧しかっただけ、あるいは私の目が節穴だけなのかもしれないですね。失礼! ・第79号 1970年(昭和45年)7月「思いあたること」(p.1) 罪の意識なしで自らを神格化する人々の構成する社会では、絶対と相対、全体と部分の区別もなく、子弟も甘やかし放題ですから、ちょっと入学試験に合格すると天下を取ったような錯覚に陥いる(ママ)のでしょう。その反面、幻滅が暗い挫折感や精神障害をおこすのです。幻

    前田護郎主筆『聖書愛読』(5) - ブログ版『ユーリの部屋』
  • 前田護郎主筆『聖書愛読』(4) - ブログ版『ユーリの部屋』

    カトリック系幼稚園で聖書の話を外典も含めて聞いて育った私は、高校生の頃から、カトリック・プロテスタントを問わず、キリスト教信者の文筆家の書いたものを読むようになりました。他の書き手の文章と読み比べていくうちに、自然に感じたことが二つあります。 もちろん人によりますし、皆が皆同じというわけではないのですが、一つには、日人あるいは日語の書き手にしては、話題が広くて同じ話の繰り返しが少なく、国際情勢にも明るいなあ、ということでした。もう一つは、文章に率直さと誠実さと透明な静謐さがあふれ、落ち着いた明るさが滲み出ていることでした。同じ頃に読んでいた、思春期から大人の女性向けのなどには、ものによりますが、友人関係上の嫉妬心やボーイフレンドの取り合い、嫁姑の陰険な悩みや夫との問題、借金、浮気、酒乱、病苦など、暗くて悪意が含まれていたり、刹那的だったり、人生に対してネガティヴな印象を与えたりする傾

    前田護郎主筆『聖書愛読』(4) - ブログ版『ユーリの部屋』
  • 前田護郎主筆『聖書愛読』(3) - ブログ版『ユーリの部屋』

    引き続き、『聖書愛読』の3巻4巻から、興味深く思った箇所、印象づけられた部分を引用させていただきます。入力にはいささか時間がかかりますが(特に、正確な引用のための再三チェックが…)、一度読んで自分なりに温めておいた内容を、再度読んで精錬させることができるのは、私にとって喜びの一つです。今だからこそできる作業と、張り切っています。では、どうぞ。 ・第31号 1966年(昭和41年)7月「書斎だより」(p.13) 埼玉大学キリスト教学生会の招きで“誤解されたキリスト教”と題する講演を行なった。生れてはじめての埼玉大訪問であるが、村上進・和田富起両教授や誌友の顔が見えたので話し易かった。会後の質問も活発(注:原字はサンズイに「發」)であった。わたしは無神論者です!と開き直る学生があったので、“われらは学徒です。お互いに事実と科学的に取り組みましょう。あなたは“者”すなわち人間であり、“論”じてい

    前田護郎主筆『聖書愛読』(3) - ブログ版『ユーリの部屋』
  • 前田護郎主筆『聖書愛読』(2) - ブログ版『ユーリの部屋』

    一昨日に引き続き、前田護郎先生の『聖書愛読−ひとり学ぶ友に−』を一年ごとにまとめたから、ごくわずかですが一部をご紹介しましょう。私の生まれる前に、前田先生によってこのような働きが起こされ、先生がご逝去の後も今なお、立教大学の月昭男先生の無教会の集いによって大切に受け継がれている思想の恩恵は、忙しい現代にあって非常に貴重なものと思います。ブログ日記の形をとって電子版で部分公表することは、あるいは著作権の問題があるかもしれませんが(発行者:前田道子氏 発行所:聖書愛読社)、こういう機会でもなければ知り得なかったかもしれない読者の方達の便宜を図り、そして、自分への励ましも込めて、差し障りのない範囲でお送りしたいと思います。 ・第1号 1964年(昭和39年)1月「創刊のことば」(p.1) ひとり聖書の文に親しんで、いささかなりとその意味を理解し、形式的な礼拝や複雑な教義では与えられない深い

    前田護郎主筆『聖書愛読』(2) - ブログ版『ユーリの部屋』
  • 前田護郎主筆『聖書愛読』(1) - ブログ版『ユーリの部屋』

    2007年11月2日付「ユーリの部屋」で触れた教文館のメールマガジンが、今日も届きました。繰り返しになりますが、宣伝がてら、その一部を以下に複写いたします(ただし、私は教文館の回し者ではありません、念のため)。 ◆『前田護郎選集1−聖書の思想と言語−』前田 護郎/著 教文館出版部刊 聖書学、とりわけ新約学を西洋古典学の一部門としてわが国に導入した第一人者として、佐竹明、八木誠一、荒井献など日を代表する多くの新約聖書学者を育て、他方、無教会伝道者・説教者として日曜聖書講座(世田谷聖書会・現経堂聖書会)を主宰した聖書学者の業績の集大成。(全4巻+別冊1巻、責任編集:山下幸夫・新井明・月昭男)第1巻では彼の多くの著作の中から、聖書の思想と言語に関わる文章を21編収録する。 遡ること2007年7月6日付「ユーリの部屋」で少しご紹介した‘聖書版あしながおじさま’が、2006年10月下旬にダンボー

    前田護郎主筆『聖書愛読』(1) - ブログ版『ユーリの部屋』
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