文字論に課せられた問題 A Proposition to Those Fresh in the Study of Japanese Ideographs and Kana
高橋輝次編著『増補版 誤植読本』(ちくま文庫2013)に「かづの」なる誤植(というか誤記)があることは、以前ここに書いたとおり。同書にはそのほか、堀江敏幸氏の文庫版解説「誤って植えられた種」に句点の重複があったりする(p.294)のだが*1、それはいいとして、このアンソロジーには、対話形式の森鷗外「鸚鵡石(序に代うる対話)」が収められている(pp.176-89)。 「鸚鵡石」は、「おうむいし」と読むよりも「おうむせき」と読んでおくほうがよいかもしれない。というのは、山田俊雄『詞苑間歩 下』(三省堂1999)に、「(日本国語大辞典が)『あうむせき』の讀みには、實証が多いことを報告してゐるのは、かへつて江戸時代に『あうむいし』の實在したことを疑はしめる手がかりになる」(「鸚鵡石」*2p.114)とあるからで、山田氏は、「不用意に言はれる、『あうむいし』の讀みが、私にとつては耳障りに聞えて來る」
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http://d.hatena.ne.jp/smallball/20060921/p4 http://lan.rgr.jp/battle/etiquette/strangeへのコメント。 「どうもです」は「どうもだ」とはいわないのでおかしいのじゃないでしょうか少なくとも真名垣様的には 正しい日本語だの美しい文化だのは捨ててしまう必要があると思う 何故なら彼らは頭に蛆がわいているからだなんて書いた(引用した?)人が、言葉の誤用(らしきもの)をまじめに指摘してゐるのには感動した。不覚にも泣いてしまった(ウソ)。 少なくとも真名垣様的にはとしてゐるから、一往指摘したといふ程度のことなんだらうが、それでも感動はする。 でもまあ、「どうもです」は代用表現が無いから仕方ないと思ふ。「どうも」よりはやや丁寧で堅苦しくはない、といふ条件なのだらうから、「ありがたうございます」とかだとしっくりしない。真名垣
山田俊雄『詞林逍遙』 漱石の全集につけられた注釈の粗雑で程度の低いものの例として三馬 漱石の当て字といふのを挙げてゐる。[三馬は当時はふつうの用字。わざわざ「漱石の」とする理由が全くない](p7) 「学問所」と「学校」は共に古い言葉だが、明治初頭は学校の方がいかめしい語で学問所の方が一般によく通じる言葉だった。(p12) [露伴の多彩な用字を列挙して] ほんの一部を抜き出すと右の通りである。当世の漢字制限は、必ずしも将来に向かって悪いことではない。しかし、露伴の如き人への親炙は全く期待できない事態を将来した。私は、露伴の研究者の出でざることを歎くよりも、それより前に、過去をすべて不可解の世界として無視する世代の風潮をおそれる。また過去をふりかえるのに、特定の人の眼鏡を通した、フィルターにかけられたものを、ほんものと思わねばならぬ世代の頽廃を惜しむ。たとえば、『万葉集』にしても、芭蕉にしても
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