◇『自己中心の文学--日記が語る明治・大正・昭和』 (博文館新社・2625円) ◇大の日記マニアが描く、もう一つの出版史 昭和三〇年代くらいまでの日本人はじつに日記が好きだった。人格の陶冶(とうや)を目的とする修養というエートスが支配的だったためで、『ジャン・クリストフ』が広く読まれていた時代精神と呼応している。軍隊でも日記をつけることを奨励した結果、太平洋の戦場跡に残された日本人将兵の日記がアメリカ軍によって解読され、作戦が筒抜けになっていたなどという笑えないエピソードさえある。 ところで、こうした日記の隆盛は、明治二〇年代の末に博文館が「当用日記」と名付けた市販の日記帳を大量に売り出してからということになっているが、当用日記の歴史を洗った本書の第一部「本邦日記帳事始め」によると、大蔵省印刷局が印刷した『明治十三年当用日記簿』が日本の市販日記の始まりというのが正しいようだ。ちなみに、当用
■歪んだ歴史観に光を当てる『日本に古代はあったのか』(角川選書・1680円)井上章一著評・繁田信一(神奈川大特別研究員) はるか千数百年もの昔から、わが国と諸外国とでは、全く異なる時間が流れていたのだろうか。 京都大学系の中国史学は中国での中世の幕開けを、後漢の滅んだ3世紀のこととする。だが、日本史学者の多くは、わが国の中世のはじまりを10世紀から12世紀までの間に置く。したがって、日本と中国とでは、中世のはじまった時期が数百年も違うことになる。 一方、東京大学系の中国史学は、中国の中世のはじまりを、唐が滅亡した10世紀に見ており、これに従う限りは、中世の開始をめぐって、日本史と中国史との間に大きな齟齬(そご)が生じることはない。しかし、これでは、日本および中国は、西ローマ帝国が滅んだ5世紀に中世の幕開けを迎えたとされるヨーロッパに比して、400年以上も遅れて中世に入ったことになってしまう
■草花への愛あふれる随筆『〈新装版〉園芸家の一年』カレル・チャペック著、飯島周訳(恒文社・1470円)評・いとうせいこう(作家) カレル・チャペックの『園芸家の一年』は、私のような素人園芸家にとって聖書に等しい。 かつての小松太郎訳『園芸家12カ月』も、飯島周訳の『園芸家の一年』も、チャペックの草花への愛のすべてを余さず写し取っているし、その巧みな筆さばきと広大で柔軟なユーモアを、あたかも水やりの極意のごとく“乾いたらたっぷりと”伝えてくれる。 われわれ読者の場合、何が乾いているかといえば、もちろん心である。なにしろ、チャペックの祖国チェコはかつてナチに支配され、その後彼らを解放したソ連によって再び厳しく抑圧されたのである。 つまり、圧倒的な不自由の中で、チャペックは圧倒的なユーモアを発揮した。草花への愛それ自体、または愛に溺(おぼ)れる園芸家の姿を活写したチャペックは、ユーモアによって冷
■[占領]人口問題 この百年間、日本で人口が問題になったのは軍国主義化するちょっと前の1920年代から30年代、終戦直後、それから人口減少だ、少子化だと騒がれ始めたここ何年かだ。そのうち最初の二つは人口増加、言い方は悪いが過剰人口の処理が問題となった。この二つの時代には海外への移民も行われたが、現在広く知られているようにそれは事実上の棄民だった。 戦前においては、帝国主義政策は人口問題の解決策のひとつでもあった。これは単純に土地を得てそこに人を送るという話ではなく、工業化を進めてそこに人口を吸収させることを目的としており、そのための資源や市場の確保のために支配領域を広げようとしたわけだ。もちろん本土の外に人口を移動させるということもした。満蒙開拓団の主力は継ぐべき土地を持たない農家の次男三男であった。焼け石に水だったが。その結果が「破滅と経済の瓦解に終わり、それによって解決すべく努力した問
福田恆存「一匹と九十九匹と」(千葉俊二・坪内祐三編『日本近代文学評論選【昭和篇】』岩波文庫、2004年、所収) 先日、何で読んだのだったか、社会科学が対象とするのは多数であり、一人を対象とするのが文学だ、という趣旨の記述があった。その通りだと思う。そんなことをむかし誰かが書いていたなあ、と喉元まで出かかってわだかまっていたのだが、今週、ふと思い出した。福田恆存「一匹と九十九匹と」だ。 福田は『新約聖書』「ルカによる福音書」から「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや」という一節を引く。彼は正統的なキリスト教解釈とは違うのだろうと自覚しつつも、このイエスの言葉は政治と文学との役割の違いを示したものだと感じ取った。 「…かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのに相違ない。かれ
今日は所用で京都市内に行っていた。 京都駅ビル内の茶店で打ち合わせを終えたのは4時過ぎ。アバンティーで何冊か本を買い求めた後、駅北側の京都タワーへ向かった。1階にあるスタバでの読書が僕の定番コースだからだ。 駅前広場から交差点へ向かう途中、京都タワーの真下あたりでパフォーマンスをしているグループを見かけた。 20歳代の若い青年が2人。風貌と喋り方はどう見てもオタ系なんで、アキバや日本橋の真似をして京都でもオタ芸をしているのだろうか。話を聞こうと思うのだが、何を言っているのか理解できない。拡声器の音が割れていてただ耳障りなだけである。さっきから見ている限り、彼らが配っているビラを誰一人受け取っていない。まあ、そうだろう。自分が何かを演じていることにに自己陶酔している。自分の演説が肝心の周囲に伝わっていないことに気付いていない。学園祭実行委員やらコミケ準備会やらによくいそうなタイプだ。 「なん
=================================================== 【Cherry Press】 2002/08/25 =================================================== Essay Issue No.18 エッセイ特集 --------------------------------------------------- 責任編集:清原万里(国際文化学部) 学生の皆さんは夏休みですが、いかがお過ごしでしょうか。 私はといえば、相変わらずのばたばたぶりで、これから台風が来ようという東京へ仕事 で出かけるところでこれを書き始めました。配信できるのはいつのことやらわかりませ んが、おそらく山口へ帰ってからになるでしょう。 さて、夏休みではありますが、マガジンの方は発行を続けていきたいと
・白石良夫「かなづかい入門 歴史的仮名遣 vs 現代仮名遣」(平凡社新書)で今一つ考へたことがある。形式名詞「こと」である。最近、これは漢字で「事」と書かれる。以前はかうひどくなかつた。この傾向は、正確には分からないが、やはりワープロ普及以後に徐々に強くなり、それがほとんど常に「事」と漢字書きする現状になつたのではないかと思はれる。要するにIMが変換するからである。こちらの意図と無関係に、変換できるものは変換する。形式名詞? そんなのは知らぬ、しかし「こと」は「事」ではないか。変換! 漢字に変換されたのだからそれで正しい、直しは不要といふわけで、マスコミがまづ使ひ出した。それを真似して、クイズ番組等でタレントが「事」と漢字書きした。それを見た視聴者がならば私もで「事」と漢字書きした……こんな経過をたどつてで形式名詞「こと」が「事」と表記され、定着して(まだしてゐないかも)いつたものと思はれ
その①の続き 田沼時代の儒学の権威失墜の影響は幕閣のみならず、町人階級にまで浸透する。当時、衣食住は元より礼儀・作法などに至るまで中国式を模倣しようとした文化人があり、彼らは「唐人仲間」と呼ばれていた。浮世草子『世間学者気質』(明和5(1768)年)に、もったいぶり、見識家ぶるだけの中国かぶれ型唐人仲間の会合を皮肉たっぷりに記されている。件の仲間の寄り合いとなれば、「何やらちんぷんかんぷん。唐人の小唄やら、日本人の寝言やら」だった。明治初め、「支那チンプンカン」という中国人への蔑称があったが、これが江戸時代に芽生えていたのだ。儒者たちの派閥争いがこれに拍車をかけ、一切の権威を失って単に蔑視の対象となり、最終的にそれが中国と見なされるに至った。 最終章「(内なる中国)と(内なる天皇)」は圧巻だと感じた。その一部を抜粋したい。 -尊王思想は既に述べてきたように、朝廷とは関係なく、「内なる中国」
「文藝春秋」の昭和47(1972)年12月号~昭和49年4月号にかけ掲載された『日本人と中国人』(イザヤ・ベンダサン著、山本七平ライブラリー⑬文藝春秋社)を読了した。代表作『日本人とユダヤ人』とはまた論調が異なり、控え目だった主張が全般に断定型に変化している。著者の心境の変化なのか不明だが、江戸時代の中国ブームを分析した箇所は実に面白く、現代にも通じる風潮がある。 この本の第2章「鎖国時代におこった中国ブーム」での、江戸時代の対中関係並びに中国観は実に興味深い。秀吉は昭和の軍人同様、外交という感覚が全くなく、秀吉が起した「朝鮮の役」はいわば「小東亜戦争」と著者は言う。従って350年後と同じく、国内が破産・混乱状態になりそうになるや止めてしまう。戦争とは通常“生存”のために戦われるものだが、日本ではこれが逆で、常に“生存”のために戦いを止めたと指摘しているのは鋭い。 そして次の家康は政権を取
『地球はすごい!明日の地球』へようこそ。テーマは『地球』。自然科学、環境、野生動物、生き物、史跡、遺跡、人、世界遺産などなど、なんでもありといえばなんでもありですが、地球の風景や生命の素晴らしさを発見、動画や写真で紹介していきます。ビバ!地球。
IBMやUPSといった企業のロゴやポスターのデザインをはじめ、『ちいさな1』『ぼくはいろいろしってるよ』といった絵本の作者としても活躍した、20世紀を代表するグラフィック・デザイナー、ポール・ランド。実は、すぐれたデザインの教育者でもありました。鋭い洞察力とユーモアで学生や同僚たちと向き合った、目からウロコのデザイン講義録。待望の日本語版です! ISBN:978-4-86100-584-8 定価:1,470円(本体1,400円+税) 仕様:203 x 140 mm /並製本/本文2色 / 80ページ 発売日:2008年9月8日 著者:Michael Kroeger(マイケル・クローガー) グラフィック・デザイナー。マウント・セント・ジョセフ・カレッジ准教授。 目次: 序文 ヴォルフガング・ヴァインガルト 前書き 謝辞 対話1 対話2 ポール・ランドとの思い出 フィリップ
昨日新潟の白山会館っていうところでJAGATさん主催のクロスメディアセミナーを受講しに行きました。 クロスメディアエキスパートって、簡単にいえば、マーケティングやプレゼンテーションを含めてメディアの活用ができる能力がある人を認定するとでも言えばいいでしょうかね。 印刷業界じゃないところのマーケティング業界だったら「当たり前だろ…常識的に考えて…」というところですが、まだまだ受注・請負産業チックな業界なので、そういうところから脱出して欲しいという思いもあるんでしょうねー。 そんで、クロスメディアはちょっとおいといて、JAGATさんがHTML関係で縦組みができるようにW3Cに提起しているって話をしていました。 そのあと、若い方が「ぷっ、WEBで縦組みはないよなぁ。」「ウケルwww」「JAGAT今更m9」とか言っていたのが気になりました。 ん〜…。 縦組みいいじゃない。 なんで縦組みがダメか考え
ED治療薬(勃起薬)は様々な違いがあります。持続時間、作用時間、効果の強さ、食事の影響などの比較をご紹介しています。 サイトマップ ED治療薬(勃起薬)の比較・違い ED治療薬(勃起薬)は、現在のところ4種類販売されています。それぞれの特徴の違いを比較します。EDに効果があるメカニズムはどれも同じですが、持続時間、即効性、食事やお酒の影響などで違いがあります。お薬は個人差もありますが、ご自分に合っているものを探すことも大切です。また、状況にわけて様々なED治療薬を使い分けている方もいらっしゃるようです。正しいお薬を選択する事で、より効果を得る事ができるでしょう。 ED治療薬の通販はコチラ 勃起力で選ぶならこのED治療薬! バイアグラ ED治療薬で最も有名なのはバイアグラではないでしょうか? バイアグラは勃起力が強くなる薬で、ED治療だけでなくナイトライフを楽しみたい方にもオススメなED治療
ED治療薬(勃起薬)は様々な違いがあります。持続時間、作用時間、効果の強さ、食事の影響などの比較をご紹介しています。 サイトマップ ED治療薬(勃起薬)の比較・違い ED治療薬(勃起薬)は、現在のところ4種類販売されています。それぞれの特徴の違いを比較します。EDに効果があるメカニズムはどれも同じですが、持続時間、即効性、食事やお酒の影響などで違いがあります。お薬は個人差もありますが、ご自分に合っているものを探すことも大切です。また、状況にわけて様々なED治療薬を使い分けている方もいらっしゃるようです。正しいお薬を選択する事で、より効果を得る事ができるでしょう。 ED治療薬の通販はコチラ 勃起力で選ぶならこのED治療薬! バイアグラ ED治療薬で最も有名なのはバイアグラではないでしょうか? バイアグラは勃起力が強くなる薬で、ED治療だけでなくナイトライフを楽しみたい方にもオススメなED治療
前日からのつづき。 リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書) 作者: 東浩紀,大塚英志出版社/メーカー: 講談社発売日: 2008/08/19メディア: 新書購入: 21人 クリック: 403回この商品を含むブログ (180件) を見る「行間を読む」とは。 Goo辞書では「文章に文字では書かれていない筆者の真意や意向を感じとる」となっている。ライトノベル批判で「行間を読むことができない」とくれば、「底の浅い文章だ」くらいの意味だろうが、東MAX先生の御高説は↓ 東 ライトノベルの文体にしても、よく言われる批判は「行間を読むことができない」ということです。しかし、では行間とはなにかと言えば、要は言葉と現実の齟齬なわけです。なんらかの現実を描こうとしているんだけれど、言葉がそれに追いつかないという不可能性の雰囲気。作者はなにかを伝えようとしているんだけれども、この言
今話題の「あたし彼女」*1を読んでいます。なんとか読めます。現在105Pです。通勤中に読み進めようかなと思います。 この「あたし彼女」は「日本ケータイ小説大賞」の受賞作なので、これまでの流れからするとスターツ出版より書籍化されるはずです。 さて、最大でも1行10文字程度のこの小説を、どうやって書籍化するのでしょうか。これまでのケータイ小説も文章量が少なかったですが、本作はレベルが違いすぎます。本作をこれまで通り書籍化すると、ページの右半分が大幅に余るはずです。前回の日本ケータイ小説大賞でTSUTAYA賞を受賞した「プリンセス」の1ページの文字量が下の画像くらいなので、下手をしたら1ページの3/4くらい真っ白になる可能性すらあります。 ケータイ小説の校正 - 田中栞日記 - Yahoo!ブログ via kwout そもそも書籍というフォーマットは、「あたし彼女」のような短文と改行の繰り返しの
今では竹下登というより Daigo のお爺さんと言った方が通りがいいのかもしれないが、あの人の権勢は凄いものだった。竹下さんが凄いというより、経世会という組織が日本の権力中枢そのもので、それだけに内部の権力争いはすさまじいものがあったが、それが日本の政治そのものだった。 経世会は田中派からクーデターを起こして独立した派閥だが、その政治手法は長年、自民党政治を支配した田中角栄のものそのもので、 大平、鈴木善幸、中曽根康弘政権樹立の大きな原動力となり、総理・総裁を目指すには、田中派の協力なしでは不可能と言われていた。 という状況が、そのまま経世会に引きつがれ、2001年の小泉さんの総裁就任まで続いていた。田中角栄の総理就任(1972年)から数えると、30年近く日本を支配してきた権力構造そのものの中枢にいたわけです、Daigo のお爺さんは。 竹下派七奉行 - Wikipedia Wikiped
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