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ブックマーク / freezing.blog62.fc2.com (4)

  • 坂のある非風景 箱の中の猫の箱

    言葉よりも沈黙、という当り前なことをずっと言葉で語りつづけてきた。言葉の背後に流れる、それら「言葉の否定」を、行間と言ったり、改行のあとに添える余白と言ったり、言葉が終わった後の読後感と言ったりしてもそれは同じことで、沈黙を読むとは、語っていないことを読んでいるのではなく、まさに語らぬことによってのみ語りうる事柄を読んでいるのだ。 誤解にさらされるやいなや「書いてもいないことを読まないでほしい」と言い始める、書くこと以外に何も語れない人々でさえ、「沈黙を語る口」を封じることはできない。 沈黙を破ることによってだけ生み落とされる沈黙があるのだ。 「なぜ語りえぬことが届いてしまうのでしょう」 そのときは書きかけた小説を持って、海に出る道をとっていた。いたるところに書きかけの小説だけがあった。完成は、書きはじめた瞬間に、すでにそこに書き込まれていた。沈黙として。過剰として。 ついに書かれた事柄だ

  • 坂のある非風景 作品の統一性を語るものは何か

    書物は、人々の手中にある物体であると自称しても、無益である。同じく、それを閉じこめる平行六面体に小さくまとまってみせても、無駄である。その統一性たるや、可変的で相対的なものだからだ。問われるや否や、それは自己の明証性を失う。それは自己自身で示すことはできず、ただ、言説の複雑な領野から出発してのみ、自己を構築することができる。 外見上は単純だ。「書物の物質的な個別化は、限定された空間を占め、経済的価値をもち」、表題とか作者とかいったいくつかのしるしによって始めと終りの境界も示されている。しかし書物の統一性を支えるのは、作品の統一性を語るのと同じような困難に出会うとフーコーは語っている。フーコーはあらゆる「書物」を念頭に置いている。歴史書、雑誌、物語、それらは他の書物との関係のなかで初めて「書物」となりうるのである。 興味深いことは、それはとしてのオリジナルが存在するような存在しないような、

  • 坂のある非風景 小さな声、ふたたび

    ちょうど分数を習い始め、「二分の一」を初めて知ったころ、子どもの10歳の祝いに「二分の一成人式」といった催しを思いついて、いったい誰が?、子どもに手紙を書くようにという連絡が学校からきた。 子どもは瞬間、瞬間にあるがままで、きみの中には成長はない、と書いてしまう。時の流れのなかにいるものは、時の流れを知ることはない。ぼくは、きみを思い描くと、時を忘れることができる。そのときぼくはきみの歴史が見える、時の河の彼岸に立っているわけではない。きみと同じ流れに流れている。 やはり覚えているのは、「沈黙の呼びかけ」といったことを、きみが初めて試した瞬間だった。「小さな声」で呼んだけど聞こえたかときみは問うた。それは、こころの中の言葉というものと、きみとの出会いであり、そうして、語られることなく語られる言葉がつくりだす場所、そこからきみが始まるのだと思った。 内面は語られなかった言葉でできている。けっ

    funaki_naoto
    funaki_naoto 2008/02/26
    「沈黙の呼びかけ/語られることなく語られる言葉がつくりだす場所/きみ自身にさえ聞きとられることのない「小さな声」が、きみを救うこともあるだろう」
  • 坂のある非風景 正しさはどこにあるのか

    評論家だって忙しいんだ、いちいち作品なんて読んでいる暇はない、といったことを小林秀雄が言っていて、批評を作品化するという小林の業績は、最終的には、作品にならない、作品に劣るしかない批評という宿命を明るみに出してしまった。対極には平野謙がいて、彼は徹底的な推理癖によって作品に深さを与え、批評が批評として立つ地平を定め、その分限を打ち立てた。作品をだしにして自分を語ることと自分を消し去ることによって作品や作家を語るというこの両極に挟まれた狭い空間が現在の批評の空間となっていて、そこを突破し解体するような第三点はいまだ出現していない。 小説なんて好き勝手に読めばいいものだが、そういった自由こそが、批評の読みに比べ、比較にならないほど狭い世界で、不自由極まりない世界だということは言っておきたい。個人的な好悪や感性の幅はあまりに狭く、その貧困がブログには露骨に現われているように見える。一瞬で「よかっ

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