言葉よりも沈黙、という当り前なことをずっと言葉で語りつづけてきた。言葉の背後に流れる、それら「言葉の否定」を、行間と言ったり、改行のあとに添える余白と言ったり、言葉が終わった後の読後感と言ったりしてもそれは同じことで、沈黙を読むとは、語っていないことを読んでいるのではなく、まさに語らぬことによってのみ語りうる事柄を読んでいるのだ。 誤解にさらされるやいなや「書いてもいないことを読まないでほしい」と言い始める、書くこと以外に何も語れない人々でさえ、「沈黙を語る口」を封じることはできない。 沈黙を破ることによってだけ生み落とされる沈黙があるのだ。 「なぜ語りえぬことが届いてしまうのでしょう」 そのときは書きかけた小説を持って、海に出る道をとっていた。いたるところに書きかけの小説だけがあった。完成は、書きはじめた瞬間に、すでにそこに書き込まれていた。沈黙として。過剰として。 ついに書かれた事柄だ