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ブックマーク / aien.hatenablog.com (9)

  • Qちゃん引退・・・大輪の花から実へ - ∴ん窯やきもの山房 里山暦

    高橋尚子が引退を表明した。 小出監督から独立したことで選手としての寿命を短くしたように思う。私たちにはうかがい知れない事情があって独立を決意したのだろうが、独立と孤立は違う。Qちゃんのやり方は孤立に近かったのではないだろうか。練習方法も、若かったとき小出監督に教わったやり方を踏襲するだけでなく、さらに先鋭化し、筋肉を酷使して自滅した。おそらく監督がいれば20代の練習と30代の練習は変えさせていたろう。他者の眼の重要さを感じる。共同体のなかにあってこそ独立と言える。 Qちゃんは、高校時代の陸上部監督から贈られた「何も咲かない寒い日は下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」ということばを座右の銘にしていたと聞く。 だが、問題は何も咲かない寒い日にではなく、大きな花を咲かせたあとに起った。この座右の銘が皮肉にもQちゃんを追い詰めたのではないだろうか。Qちゃんは咲いたあとも下へ下へと根を伸ばそ

  • 時代遅れな漢字表 - ∴ん窯やきもの山房 里山暦

    今朝の新聞に常用漢字表に新たに188字加えるという記事が載っていた。同時に「叩く」や「噂」、「朋」などが選に漏れたとも報じられていた。 こんなバカげた選定作業を大の大人がまじめに議論しているのだろうか?そもそも使う漢字を制限しようという国家統制的発想が貧困極まりない。 一時代前には世間にほとんど知らされていない形で、我が国のエライさんたちは日語の表記はすべて仮名文字だけにしようと気で考えていたのだ。当用漢字という命名を見れば明白だ。 とうぶんのあいだはつかうけれど、やがてぜんぱいする、そういういみがこのめいめいにこめられている。それがどれほどにほんのぶんかをききてきじょうきょうにおとしいれるかかんがえもせずに。 でも、すったもんだの末、漢字は常用となり、晴れて堂々と日語は漢字仮名交じり文を表記の則に据えた。 そもそも、この問題は文化審議会国語分科会漢字小委員会などという末端の組織で

    時代遅れな漢字表 - ∴ん窯やきもの山房 里山暦
  • 隠喩の力 - ∴ん窯やきもの山房 里山暦

    後期高齢者医療制度が問われている。マスコミや野党は制度そのものの問題点を指摘するが最も大きな敵に気づいていない。政府も気づきそうになったが、やはり見逃している。 問題はことばだ。今回の大騒動はことばの力、ことばが発する人生、あるいは、生活世界を根底から象る能力をないがしろにしたことに起因する。 「後」、「うしろ」、は「前」との対立関係によって成り立つ概念だ。前はよいもの、価値のあるもので、後はその逆だ。右、左にも同様な差別がある。ひとはうしろには立ちたくないのだ。 さらに、後期、というのは次がある場合には希望を与える。例えば、大学入試。前期があって後期があるが、どちらも入学という出発へと進む。だが、もう後がないものに対して使うと、そこには容赦のない「うば捨て山」の思想が透けて見えてしまう。 役人はお利口なバカである。一生懸命勉強して役人になったのだろうが、子供の時から塾通いで遊びごころも思

    隠喩の力 - ∴ん窯やきもの山房 里山暦
  • 味覚とは奇妙なもの - ∴ん窯やきもの山房 里山暦

    唐九郎の説では、酒は飲みにくいぐい呑みで飲む方がうまいという。お茶もそうらしい。そこで実験してみた。味覚は主観的なものだから、えてしてこういう既知情報に左右されやすい。だからあまり確かなことではない。だが、味覚とは主観が主観として味わうものだからこそ、こういうあやふやな主観の印象が重要だとも言える。土台この種の官能試験は機械的な計測が届きにくい分野だ。官能のものは官能へ、である。 用意したのは ①飲み口が薄く、傾けるとすっとお茶が口に流れ込む、所謂飲み心地のよい茶碗 ②飲み口が厚ぼったい上、凹凸(よく言うと山道)があるので、ヘタをするとこぼす可能性さえある茶碗 の二種類だ。この二つで抹茶を立てる。お湯の温度で差が出るかも知れないので、順番を入替えて二度試験してみた。 驚いたことにやはり飲みにくい茶碗のお茶の方がうまいのだ。飲むときの緊張感が美味さを生むのか、飲む際に多少すする必要があるので

    味覚とは奇妙なもの - ∴ん窯やきもの山房 里山暦
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2006/10/27
    「唐九郎の説では、酒は飲みにくいぐい呑みで飲む方がうまいという」
  • 述語の戦い - ∴ん窯やきもの山房 里山暦

    ひさしぶりに死の不安を覚えた。風呂に入っているときだ。温かい湯につかりつかの間の安息を感じていたその時、こういうことを感じること、そのことが永遠になくなるのが死だと思った。もし一年のいのちを宣告されたら、どんな思いでこの湯につかるのだろう。何にすがっても死を免れることはできないのだ。そのとき不意に死が身近になった。 死は決して死そのものではない。もし死そのものなら私たちはなにも感じることも怖れることもできないから。死はいつも私たちにとっては予期なのだ。生きることがもうひとつの述語であるように、死とは究極の述語なのだ。だから生という述語のただ中にいるときに死は身近になる。 死ぬことはこわい。死への苦しみもこわい。それを思うと自死するひとの気持も手に取るように分る。だが、それで楡の木は見つかるのだろうか?(cf. http://www.geocities.jp/todok_tosen/todo

    述語の戦い - ∴ん窯やきもの山房 里山暦
  • 昨日、還暦 - ∴ん窯やきもの山房 里山暦

    あまり実感がないからわざわざ書かなくてもいいのだが、伝統への礼儀かと思い御挨拶を。おそらく数え切れない数の先輩がたも実感はなかったのかも知れない。いや、そんなことを感じるのは高い平均余命のなせる業か?無常を日常として生きていた(小林秀雄のことばを借りれば)鎌倉時代の女房には還暦など夢の又夢の世界だったかも知れない。実感の有無はともあれ、私は60年を生きてきた。暦が還ってきたわけだから、陳腐な発想だが、生れ変わったことになる。 だが、生れ変わるということはなかなか大変なことだ。人間、過去にすがって生きている。ほとんど無意識にすがっているからタチが悪い。今までの安定は場の安定だった。空間的にも精神的にも生きる「場」をしかと持っていたから安定していた。だが、その「場」を棄て去ったときいったい何が残るのか? シェイクスピア、大学、劇団と無縁の世界で生きるには何が必要なのだろう?あれやこれやと考えて

    昨日、還暦 - ∴ん窯やきもの山房 里山暦
  • 飛行訓練 - ∴ん窯やきもの山房 里山暦

    今は飛ぶ前にしゃがみ込んでいるときだ。 それにしても芝居という「時」の化身は、この世の時間の中で具現しようとするとなかなか入口が見つからないものだ。台という観念世界のなかでは自由奔放にはしゃいでいた「時」が、いざ私たちの時の舞台へと移そうとした瞬間それまでの無邪気はなりをひそめ、まるで鉄の塊でもあるかのように動かなくなってしまう。 それだけ私たちの身体は(体重ではない)重いということだろう。 器は触らずに作れ。これは陶工が日々実践している「時」の具現だ。 言えばただそれだけのこと柳かな。そういうことなのだ。

    飛行訓練 - ∴ん窯やきもの山房 里山暦
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2006/06/14
    「器は触らずに作れ。これは陶工が日々実践している「時」の具現だ」
  • 2006-03-24

    推理小説の常識から考えればあまり複雑な問題ではない。つまり、誰が得をしたのか?偽のメールをでっち上げて利益を得たのは誰か?それを考えれば、証拠はあげられないが、少なくとも犯人はわかる……のだが、現実は小説より奇なりと言うしなあ。 織田君はいいね。ジャンプに失敗して、別なジャンプで点を取りに行ったもののジャンプの数が規定より多すぎたためメダルを取り損ねてしまった。試合後のコメントがよかった。失敗を意に介しない。失敗した自分を自分でからかっている。たぶん彼には《失敗》はないのだな。 自分と仲がよいから、失敗とも仲好しになれる。自分を受入れることが不思議な力を生み出して、どんなことも楽しいものに変えてくれのだ。失敗も含め滑ること全体を楽める。我が劇団の新人もこの力に早く気付いて欲しいものだ。ひとは自分のなかにいる自分とうまくやっていかないと生き生きと生きられないのだ。あの風貌といい、あの度胸とい

    2006-03-24
  • 虹が出た - ∴ん窯やきもの山房 里山暦

    今日の昼下がり、突然雨が降り始めた。冬の雨というより夏の雨のような降り方だった。そして、降り始めるのと同じように突然止んだ。止んだとたんに日が射して来た。こういう時は虹が出るな、と思っていると東の空にもう大きな弧が懸かっていた。かたちも不完全だったし、色も消え入りそうだったが、れっきとした虹だ。撮れないと分っていながらデジカメを取り出して撮影する。 虹は人家から天に架かっていた。見方を変えると、天から人家に向かって突き刺さっていた。虹は美しい。だが、同時に不気味だ。その不気味さが好きだ。天上の論理(非論理)で地上の存在物を骨抜きにする。中性子爆弾のように、何一つ破壊することなく・・・。その穏やかさにはどこかへの通路が隠されているようにも思える。

    虹が出た - ∴ん窯やきもの山房 里山暦
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