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ブックマーク / clarus.shin-yo-sha.co.jp (4)

  • 服部徹也連載「第3回 受講ボイコットされる夏目先生を誰が救ったか」『夏目漱石はどんな授業をしたのか』

    連載第1回で簡単に紹介したとおり、夏目漱石の東京帝国大学での講義は逆風のなかで始まった。抗議のため、受講ボイコットや、所属学科の変更を行なった学生までいたほどだ。しかし、ほどなくして漱石の講義は「満員御礼」と言われるまでに、英文学科内外の学生達の支持を集めていく。一体どのように、夏目先生はピンチを切り抜けていったのだろうか。学生側からみた大学の雰囲気を、当時の学生の日記を通して味わってみよう。 図 1 1900年頃の東京帝国大学文科大学が入っていた校舎内観 (図の出典は末尾にまとめて記載) ヘルン先生の、夏目先生の、三四郎のいたキャンパス 学生にクロースアップする前に、キャンパスの様子を具体的に思い描いていきたい。まずは筆者の『はじまりの漱石』(新曜社、2019)のカバー・表紙の話から始めよう。カバー・表紙に用いた写真(図1)は、ゲーム「文豪とアルケミスト」をプレイしたことがある方には学校

    服部徹也連載「第3回 受講ボイコットされる夏目先生を誰が救ったか」『夏目漱石はどんな授業をしたのか』
  • 服部徹也連載 第2回「漱石アンドロイドがまだ思い出せないこと」

    百年、私の墓の傍〔そば〕に坐つて待つてゐて下さい。屹度〔きっと〕逢ひに来ますから――『夢十夜』にそう書いた漱石は没後百年となる2016年12月、アンドロイドになって甦〔よみがえ〕った。二松学舎大学が大阪大学、朝日新聞社の協力のもと、漱石アンドロイドを作成し大学等で講義を行なわせるというプロジェクトだ。科学と文学とが協働したプロジェクトが、漱石没後100年の2016年、生誕150周年の2017年と続いたアニバーサリー・イヤーを盛り上げたのは興味深い。漱石もまたイギリス留学中に化学者池田菊苗との交流を通して、「学問をやるならコスモポリタンのものに限り候(略)僕も何か科学がやり度〔たく〕なつた」(1901年9月12日、寺田寅彦宛書簡)と感慨を漏らし、科学的な文学研究の方法論を探求した人であったからだ。 しかし、肝心の漱石アンドロイドの授業というのは、『心』や『夢十夜』などの作品の朗読を行うものだ

    服部徹也連載 第2回「漱石アンドロイドがまだ思い出せないこと」
  • 服部徹也(大谷大学助教)「夏目漱石はどんな授業をしたのか? 受講ノートを探す旅」『夏目そうせきはどんな授業をしたのか』

    夏目さんの文学論や文学評論をよむたびに当時の聴講生を羨まずにはゐられない。 (1914年12月21日、井川恭宛 芥川龍之介書簡) 1914年、当時22歳の芥川龍之介は親友への書簡にそう記した。漱石の自宅へ毎週門下生が集う「木曜会」に、芥川が初めて参加する日の約1年前のことだ。東京帝国大学文科大学英文学科講師、夏目金之助(漱石)が行った講義にもとづく『文学論』(大倉書店、1907)と『文学評論』(春陽堂、1909)に、すでに相当親しんでいたことがわかる。漱石が去ったあとの英文学科に通っている芥川は、現教師陣への不満を漏らすとともに、漱石の講義に憧れた。 いったい、漱石の講義はどんなものだったのだろうか。その講義は、同時期に小説家としての夏目漱石が誕生することと、どのように関わっているのだろうか。私もまた『文学論』や『文学評論』を読み、漱石の講義を追体験してみたいと思った。それらの著作の元とな

    服部徹也(大谷大学助教)「夏目漱石はどんな授業をしたのか? 受講ノートを探す旅」『夏目そうせきはどんな授業をしたのか』
  • 論文投稿と査読のホントのところ①

    論文投稿と査読のホントのところ①
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