タグ

ブックマーク / n-shikata.hatenablog.com (15)

  • 大国隆正における〈古言〉論ー「言葉は後より出てきたるものと知られたり」ー - はぐれ思想史学徒純情派

    大国隆正における〈古言〉論ー「言葉は後より出てきたるものと知られたり」ー.pdf - Google ドライブ 一.問題の所在 大国隆正(1792ー1871)は、『学統辨論』(1857年成立)の中で次のように述べている。 おのれがかくのごとく、わが学統をもわきまへしも、みな文字のたすけによることなれば、これは学者はまづしりおかでかなはぬことゝおもふにより、いまこの書に文字のおこりをしるしおきて、わが神道狭小ならぬよしを、まづ学者にしらしめおかんとす。*1 かくのごとく、地球上の言語、地球上の文字こと/"\く、わが古伝にみえたる天神・地祇のみはからひにもれざることをしり、外国のことをも集めて大成し、わが固有の神道を万国におしおよぼすなん、わが学統の意にありける。*2 稿の目的は、幕末維新期にかけて活躍した大国隆正の言語論とその思想に焦点を当てて、幕末国学言語論の思想的位相について考察を行う

  •  田尻祐一郎『江戸の思想史』 - はぐれ思想史学徒純情派

    江戸の思想史―人物・方法・連環 (中公新書) 作者: 田尻祐一郎出版社/メーカー: 中央公論新社発売日: 2011/02メディア: 単行購入: 5人 クリック: 23回この商品を含むブログ (15件) を見る 「通史」を書ける人は、研究者でもそれほどいるわけではない。「通史」というのは、やはり著者の持ち味やカラーが出てくるようなものだと思う。自分もそのような研究の場に身をおいている人間なので、どのような「切り口」で書は江戸思想史を書いているのか、というところにどうしても目が行ってしまう。 書の主旨は、〈人と人との繋がり〉を意識しながら、江戸時代における「思想の雑多性」に着眼点を置いている。一見すると無関係な思想でも、接合や葛藤を繰り返し、生み出されていく思想のエネルギーを感じとって欲しいという、著者の意気込みも伝わってくる。かかる観点から、書では「イエ」意識・書物流通・商品と市場・

     田尻祐一郎『江戸の思想史』 - はぐれ思想史学徒純情派
  •  「韓流」で〈朝鮮〉は死んだのか?―中根隆行『〈朝鮮〉表象の文化誌』を読んで - はぐれ思想史学徒純情派

    “朝鮮”表象の文化誌―近代日と他者をめぐる知の植民地化 作者: 中根隆行出版社/メーカー: 新曜社発売日: 2004/04メディア: 単行購入: 1人 クリック: 12回この商品を含むブログ (3件) を見る PDFファイルを興味があればダウンロードして下さい。 1 今年9月に公開された、ペ・ヨンジュン(배용준)主演「四月の雪」へのメディア報道の過熱ぶりを見ると、日中の話題をかっさらった「韓流」ブームは、未だに健在なのだと評者は改めて思った。「ヨン様」と「ジウ姫」は、相変わらずの人気だし、「韓流四天王」という言葉も、記憶に新しいところである。さらに「韓流」俳優のメディア露出度は今年になっても衰えを見せないし、またあれだけ流れた「冬のソナタ」主題歌と挿入歌の数々は、現在でも「定番ソング」として聞く機会がある。日韓共催のW杯と「韓流ブーム」のおかげで、つい最近まで「近くて遠い国」と呼ばれ

     「韓流」で〈朝鮮〉は死んだのか?―中根隆行『〈朝鮮〉表象の文化誌』を読んで - はぐれ思想史学徒純情派
  • 言葉の〈始原〉とコスモロジー―幕末国学言語論の思想的位相― - はぐれ思想史学徒純情派

    言葉の〈始原〉とコスモロジーー幕末国学言語論の思想的位相.pdf - Google ドライブ 一.問題の所在 今の世に古学と称して、哥道立る徒。蟻の如く多かるに。其先生のたちの伝を物するに。契沖。県居。鈴屋をし。三哲などを称して。此大人の事をば。都に称するなきは。其徒みな哥作者にて。道の義を知らざる故に。哥学の方より然は思ふにぞ有りける。*1 皇国の古伝説は、天地いまだ成らざりし以前より、天つ御虚空に御坐して天地をさへに鎔造ませる。産霊大神の御口づから、天祝詞もて、皇美麻命の天降坐る時に御伝へ坐ると、其五百座の御子神たちの、裔々の八十氏々に語り継たる、或は世に弘く語り伝たるも有が中に、天祝詞なる伝は、古伝説のにて正しき由よし〔中略〕日紀古事記なる伝は、世に弘く伝はりたるを集め記されたる故に、自然に訛れる伝へも交れるを、祝詞の伝へにて正し辨ふべき〔後略〕。*2 平田篤胤(1776-18

    言葉の〈始原〉とコスモロジー―幕末国学言語論の思想的位相― - はぐれ思想史学徒純情派
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2015/01/05
    「本稿では〈言霊音義派〉の国学者たちの言説をめぐって、言葉の〈始原〉とコスモロジーという視点から、その展開過程について考察」
  • 井上哲次郎と「新体詩」 - はぐれ思想史学徒純情派

    〈目次〉 1 はじめに 2 〈回想〉する井上哲次郎―もしくは「詩」の名付け 3 〈長さ〉と〈わかりやすさ 1 はじめに 井上哲次郎(1885~1944) という人物は、いくつもの「問題」を孕んでいたのにも関わらず、「国民道徳論者」として後年の研究者たちから〈断罪〉を受け、ある意味で「近代日」の負 の側面を一身に背負った人物として紹介ないし説明されることが多い。その故だろうか、実は井上哲次郎をまともに取り上げた研究はそんなに無いという事実に すぐ我々は行き当たる。それは、「井上哲次郎は保守的な国家主義者であり、急進的なイデオローグだったから、ことさら井上の文章を論じて批判し取り上げる 必要は感じない」という研究者側の勝手な暗黙の了解が為されてきたことによるものである。だが第1回 報告で磯前順一氏がかかる研究者の立場は繰り返し批判されるべき視点であることを言っており、これまでの井上哲次郎に対

    井上哲次郎と「新体詩」 - はぐれ思想史学徒純情派
  • 富士谷御杖における〈言語認識〉 - はぐれ思想史学徒純情派

    1.序論―御杖研究の問題点 富士谷御杖(1768ー1823) は、近世の国学者たちの中でも、彼自身が打ち立てた独自の説を基盤とした歌論とその古典解釈によってその名が知られている人物である。報告で私はその富士谷御杖の思想を題材の中心として取り上げるわけだが、題の導入の前提として、富士谷御杖という人が〈国文学史〉や〈国学史〉の中でどのような位置付けが行われてきたのか、ということをおおまかに振り返ることによって、富士谷御杖研究の問題の所在について明らかにすることから始めてみたいと思う。 〈国学史〉の中での富士谷御杖の地位を象徴的に表しているように思われるのが、津田左右吉が著した『文学に現はれたる我が国民思想の研究』(1921)の中に書かれた次の文章であろう。「普通には国学者とはいわれていないかも知れぬが、真淵宣長の系統の外に立って特殊の思想をもっていたものもあるので、その最も著しいのは富士谷

    富士谷御杖における〈言語認識〉 - はぐれ思想史学徒純情派
  • 〈神代文字〉の構想とその論理―平田篤胤の《コトバ》をめぐる思考― - はぐれ思想史学徒純情派

    〈神代文字〉の構想とその論理.pdf 1.はじめに 近年の国学論、とりわけ国学言語論をめぐる議論の基盤には、《音声中心主義批判》とも言うべき一つの流れが ある。それらの先行研究では、一八世紀徳川日という思想空間内部において、居宣長が『古事記伝』によって為した〈始原〉としての「ヤマトコトバ」の語り出しが、〈日〉という共同体の形成を画定させ、そのイデオロギーが内包する意味づけを示した1。その論点 にはいかに国学言語論が、「漢字」という《書記言語》を排除し、《音声言語》としての「ヤマトコトバ」という理念に依拠したイデオロギー的作業であったのか、という問題に帰着することができる。 だが、これから主題とする一九世紀における徳川日の国学言語論が見せる相貌は、宣長によって惹起される《音声中心主義》と重なり合いながらも《変奏》を奏でる。そして《外部=他者》が介入し、邂逅した瞬 間、「ヤマトコトバ」

    〈神代文字〉の構想とその論理―平田篤胤の《コトバ》をめぐる思考― - はぐれ思想史学徒純情派
  •  「国文学研究」を問い直すということ/問い続けるということ - はぐれ思想史学徒純情派

    「国文学」の思想―その繁栄と終焉 (学術叢書) 作者: 笹沼俊暁出版社/メーカー: 学術出版会発売日: 2006/02メディア: 単行 クリック: 20回この商品を含むブログ (4件) を見る 興味のある方はPDFファイルで、ダウンロードしてください。 1 いま書店を見渡すと、サブカルチャーやネット言説を論じる書物が、店頭に並び隆盛期を向かえている。それらは「現代文化」を分析し、またそれに新たな意味を付与することに積極的にみえる。例えば、オタク・ブログ・恋愛ニート・若者世代・下流社会などであろう。そのような動きのなかで、埋没してしまったのが「文学研究」である。現代において、「文学」を、あるいは「文学研究」を問い直すことにどれほどの意味があるのか。そのようなジレンマに苛まされることがたびたびある。それは書店の光景だけでなく、アカデミズムにおける現在の風景ともパラレルなものだろう。つまり、

     「国文学研究」を問い直すということ/問い続けるということ - はぐれ思想史学徒純情派
  • 長谷川亮一著『「皇国史観」という問題』 - はぐれ思想史学徒純情派

    「皇国史観」という問題―十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策 作者: 長谷川亮一出版社/メーカー: 白澤社発売日: 2008/01メディア: 単行購入: 2人 クリック: 20回この商品を含むブログ (7件) を見る PDFのファイルをダウンロードしていたければ、幸いです。 1. まず、書がテーマとして追究する「皇国史観」をめぐる問題が設定されるという事態が、どのような意味を持つことなのかを考えてみよう。90年代に入り、自らを「中立」に立つことを表明し、これまでの教科書における歴史叙述を「自虐史観」と名づけ、《歴史は物語にしか過ぎない》というテーゼが、歴史修正主義者たちによって打ち出された。その発端は、言うまでもなく、「新しい歴史教科書をつくる会」による挑発から始まったと言える。しかしその内実は、新自由主義と新保守主義とが同居する、ある意味でコインの表裏にしか過ぎないのだ

    長谷川亮一著『「皇国史観」という問題』 - はぐれ思想史学徒純情派
  •  近世儒家言語論と国学言語論における〈音義〉分析の位相 - はぐれ思想史学徒純情派

    興味のある方はPDFファイルでダウンロードして下さい。 1. はじめに ◎ 皆川淇園・富士谷成章・富士谷御杖 →従来の研究を振り返ると、竹岡正夫(1963)・戸川芳郎(1980)・櫻井進(1982・1983)・野口武彦(1993)・浜田秀(2000・2002)・肱岡泰典(1996)などにより、皆川淇園の言語論(「開物学」)をめぐる方法へのアプローチがなされてきた。 →皆川淇園における「開物学」は難解ではあるが、荻生徂徠の「古文辞学」を批判的視座として見据えつつ、〈文〉・〈字〉・〈声〉への根源的解釈を切り拓く。 →皆川淇園の「開物学」は、富士谷成章・富士谷御杖父子も、多大な影響を受けていることを、多くの諸氏が述べている。 →もちろん、「影響」という観点からいえば、かかる指摘は間違いないであろう。しかし問題は、どのようなパースペクティヴで考察すればよいかということ。 →報告では、間テクスト的

     近世儒家言語論と国学言語論における〈音義〉分析の位相 - はぐれ思想史学徒純情派
  •  酒井直樹『日本思想という問題―翻訳と主体』輪読―第2章「日本思想という問題」 - はぐれ思想史学徒純情派

    思想という問題―翻訳と主体 作者: 酒井直樹出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1997/03/14メディア: 単行購入: 1人 クリック: 8回この商品を含むブログ (6件) を見る 興味のある方はPDFファイルでダウンロードしてください。 1.要約 一 問いの設定 なぜ改めて「日」の思想が問われなければならないのか。あるいは日の「思想」が問われなければならないのか。なぜ日思想が問題として提出されなければならないのか。歴史学、文学、哲学といった人文科学に包摂される分野だけでなく、社会科学を含めて「思想」が論じられてきたことは言うまでもない。つまり、人文科学そして社会科学が「思想」として考察されることがひんぱんにあった。……、しかし、「思想」なる語が「日」と結びつき「日の思想」となるとき、事態は新たな次元を加えると考えた方がよいのではないか。(p35) そこで、「日の思

     酒井直樹『日本思想という問題―翻訳と主体』輪読―第2章「日本思想という問題」 - はぐれ思想史学徒純情派
  •  イ・ヨンスク『「ことば」という幻影』輪読(4) - はぐれ思想史学徒純情派

    興味のある方は、PDFファイルでダウンロードしてください。 【担当範囲】 第8章「国語」ということばの新しさ 第9章「日語」と「国語」のはざま 第11章「国語」と言語的公共性 ◎ 第8章「国語」ということばの新しさ 柳田が「新しい漢語」というときの「新しさ」は、明治時代に新たな意味を負わされた漢語に感じられる独特な感触であったろう。つまり、「国語」の「新しさ」は、明治という時代の「新しさ」でもあったわけである。(p177) 今でいう「国語科」にあたるのは、小学校令では「読書」「作文」「習字」、中学校令では「国語及漢文」であって、小学校にも中学校にも「国語」という科目が定められたわけではなかった。ただし、師範学校令によって、尋常師範学校では「国語」という教化が「漢文」とは別に定められてはいた。ちなみに、小学校で「国語」という教科がはじめて登場するのは、一九〇〇年の小学校令改正のときである。

     イ・ヨンスク『「ことば」という幻影』輪読(4) - はぐれ思想史学徒純情派
  •  イ・ヨンスク『「ことば」という幻影』輪読(2) - はぐれ思想史学徒純情派

    興味のある方はPDFファイルをダウンロードしてください。 【章を取り上げた理由】 近年主張されている「東アジア漢字文化圏」という言説をいかに問題できるのか。それを考えるためのヒントとして、各章を選んだ。今回もポイントを絞りながら検討を加えたい。 1.言語という装置 すべての知識はことばからなっている。知識とはことばの一定の組み合わせである。そうであるとすれば、ことばを人間の意志から解き放ち自律的な運動をさせれば、現在は知られていない知識でも容易に発見できることになる。……重要なのは、単語と単語との自動的で偶然的な結びつきである。まるで単語どうしの偶然の配列が、人間に一瞬にしてあらゆる真理を開示してくれるかのようである。ここでは人間がことばを使うのではなく、人間はことばに奉仕するのである。(p34-p35) 2.文字から文体へ もともと中国の文字だった漢字は、朝鮮、ベトナム、日に伝えられ

     イ・ヨンスク『「ことば」という幻影』輪読(2) - はぐれ思想史学徒純情派
  • イ・ヨンスク『「ことば」という幻影』を読む―〈国語〉と〈言語的マイノリティ〉をめぐる考察― - はぐれ思想史学徒純情派

    「ことば」という幻影 作者: イヨンスク出版社/メーカー: 明石書店発売日: 2009/01/30メディア: 単行 クリック: 11回この商品を含むブログ (6件) を見る 興味のある方はPDFファイルでダウンロードして下さい ◎担当箇所 第6章「『正音』の帝国」・第7章「国語学・言語学・国学」・第12章「手話言語と言語政策」 ◎選定の理由 →自らの研究に即して鑑みた場合、第6章と第7章は避けて通れない箇所であること。 第12章を選んだ理由は「手話」という〈言語〉で生活を営んでいる人々が置かれている現状を考察することは、《コトバ》をめぐる問題に対し、一石を投じる示唆を与えるという意味で重要な箇所である。また、「正音の帝国」では伊沢修二の「ろう教育」の問題がクローズアップされており、その関連性を考察した場合、有益であると考えられたからである。以下、順番に即して論点を整理する。 1.要約 ◎

    イ・ヨンスク『「ことば」という幻影』を読む―〈国語〉と〈言語的マイノリティ〉をめぐる考察― - はぐれ思想史学徒純情派
  •  安田敏朗『国文学の時空―久松潜一と日本文化論』 - 岩根卓史のピヨピヨ日記

    国文学の時空―久松潜一と日文化論 作者: 安田敏朗出版社/メーカー: 三元社発売日: 2002/04メディア: 単行購入: 1人 クリック: 7回この商品を含むブログ (3件) を見る PDFファイルで、ダウンロードできます。 1 90年代以降、国民国家論やカルチュラル・スタディーズ、ポスト・コロニアルやジェンダー論といった横文字の思想潮流の影響を日の学界は受け、冷戦構造下における二項対立的な世界秩序の中では、表舞台に上がることがなかった問題が取り上げられるようになり、近代を強固に支えてきた「国民」概念は問い直されるようになった。そして「国民」を構成する役割を担ってきた「近代知」批判を目的とした書物が書店の店頭に並ぶようになって、もう随分たっている。 「日人の美意識」や「日人の精神」とは、一体いかなる性質を持つものであるのか。このような問いは、近代以降つねに「問題」として繰り返さ

     安田敏朗『国文学の時空―久松潜一と日本文化論』 - 岩根卓史のピヨピヨ日記
  • 1