何かを「怖い」と思ったらそれはやるべきで、何かを「やりたくない」と思ったらそれはやるべきではない。 人前で歌うのを「怖い」と思ったらそれはやるべきで、「やりたくない」と思ったらそれはやるべきではない。 会社をやめて独立するのを「怖い」と感じたらそれはやるべきで、「辞めたくない」と思ったら会社に留まるべきだ。 「とっても素敵だけどこんな高価なものを買うのが怖い」と思ったら買うべきで、特に欲しくないのならどんなに安くても買うべきではない。 ひとりで海外に行くのが怖いと思ったら行くべきで、行きたくないと思ったら行くべきではない。 大きな大会に参加して自分の実力を知るのが怖いと思ったら参加すべきで、周りからいくら勧められても興味がなけれやるべきではない。 この法則に従えば、「やればよかった」「行けばよかった」「買えばよかった」「挑戦すればよかった」という後悔と、 「やらなきゃよかった」「行かなきゃ
人生には答えはない、思いと考えがあるだけ。そんな風に思いました。 私の苦手な「主観が全て。客観は無視」というヤツではなく、答えを求めても無駄だな、と思ったのです。そこに答えは無いから。誰も、人の人生の正解は教えてくれないし、自分でも絶対に分からないから。 単純に、結果を出す事=正解、としてしまえば簡単だけれども、これだと、結果が出せない時、その事に囚われて落ち込んでしまうわけで、かなり危険。 結果が出なくても落ち込まないようにする為には、予め、結果が出なかった時の為に、心の対処法、割り切り方、次の一手の出し方、を考えておけばいいわけで、それを用意しておけば、結果が出なくて落ち込む危険を、ある程度回避できる、と思う。 で。この「心の対処法」「割り切り方」「次の一手の出し方」が、すなわち自分の「思い」であり「考え方」であるなあと思ったわけです。 何かをする時決める時に、どういう思いと考えでやる
みなさま こんにちは。 本日は、「日々の自由時間を増やすために、1日のスケジュールをどのように変えたか」についてお話しします。 私はひとりの時間が好きなので、仕事が終わればまっすぐ帰宅します。 でも、外で遊んでいないにも関わらず、なんだかフリータイムが少ない気がしていました。 読書と文章を量産することを好む私は、インプットとアウトプットの時間をたくさん取りたいと願っていました。 しかしながら、当時の私のスケジュールは下記の通りでした。 --- 6:30 起床〜朝食 7:00 メイク&着替え 7:40 自宅出発 7:50 朝活英会話 8:40 会社へ向けて、教室を出発 9:00 会社到着 ( SNSチェック、メール返信などの軽作業から徐々にエンジンをかけていく) 13:00 ランチ (お行儀が悪いと分かっていながら、SNSをチェックしながら食べる) 14:00 復職 (収支計算や資料作成など
私の小さい頃の夢は、看護師だった。 それは、身近な慕っている人が看護師だったから。 しかし年齢を重ねると、公務員を志すようになっていた。 理由は、単純かもしれないが、「公務員に向いている」とよく言われていたからだ。 でも今、私は普通に会社員である。 そして同時に、Webライターを志している。 「向いている」って一体何なんだろう。 人それぞれ考え方はあるが、「向いている」というのは客観的な言葉だ。 “自分で”向いているかどうかを考えることほど、不確実な判断はない。 なぜなら、人は自分のことを自分で何より理解できていない生き物だから。 自分の思う「向いている」は、一番疑うべきだと個人的には思う。 ただ、矛盾したことを言うようだが、自分以外の人が言う「向いている」も正しいとは言えない。 人には、いくつもの顔がある。これは悪いことではなく、当然のことである。 そのいくつもある顔のうち、どの顔を見た
土曜の朝は、パンが多い。家の近くに「ナノッシュ」という美味しいパン屋さんがある。先週の土曜も、朝食はナノッシュのパンだった。 いつもは夫がバイクで買いに行くのだが、海外出張から帰ってきたばかりで疲れていたのだろう、昼近くまで寝ていたので、初めて1人で買いに行った。スバルのR2でブーンっと。 いつものパンを買い、駐車場に戻ると、どこからともなく子どもの泣き声が聞こえる。気のせいだろうか……近くの家で、親から叱られているのかもしれない。 車のドアに手をかけたとき、やはり子どもの泣き声が聞こえた。しかも、先ほどよりもしっかりと。おまけに「助けて〜」という声まで聞こえる。 これは、助けなくてはいけない。 ふと隣の車を見ると、耳を塞いで泣き叫ぶ3歳くらいの男の子が助手席に座っていた。車内を覗くと、誰もいない。怪しく思われないだろうか……と思いながらも、助手席に駆け寄った。 やはり、泣き声は車内の男の
周りからよく除け者扱いされていた。 感覚のズレ、価値観の違いに突拍子もない発想… それらが私を孤立させ、甚だしくは「異常」とまでも言われた。 「演技」をした。 なるべく普通に見えるように、 なるべく目立たないように。 そうしていくうちに、とうとう疲れてしまったーー 私はこれを何年続けて いかなければならないだろうか? 十年? 二十年? …… 五十年? これから先もずっと「演技」をして生きていく、そんな自信がなかった。 「寂しい、みんなと同じになりたい」と願っていた心も段々ひねくれるようになり、いつしか「みんなと同じ」を嫌うようになった。 自分が特別であることに誇りを持ちたいと思うようになり、「普通である」ことを屈辱でさえ感じるようになっていった。 「違う」からといって、「間違い」と扱われることが嫌いになった。 そして考えが変わったーー 「私を受け入れてくれる人達でないだけ」、と。 「こんな
「褒め」だけでも、「責め」だけでも、人は良く成長出来ないと、decoは思っています。 「褒め」は人に自信感を与え、勇気を溢れさせます。 しかし、度が過ぎると現状に満足してしまい、甚だしくは高ぶってしまうこともあります。 そうならない為に、「責め」が必要になります。 「責め」は大きな金槌のように、今までこもっていた殻を打ち破いてくれます。 それから視野が広がり、更に大きな力を得るきっかけになるのです。 けど、否定されることが続くと、人は臆病になりやすく、自ら行動する力が失われます。 そして今度はまた、「褒め」の出番になるのです。 バランスよく褒められたり、責められたりすることは、偏った成長を防ぐことにおいて、とても大事なことなのです。 Follow @gifteddecoboko >ブログ村&人気ブログランキング参加中です!< >下記バナーをポチッとクリックしていただけましたら大変励みになり
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