アジールがディレクションを行うオルタナティブギャラリー。 写真家、ペインター、プログラマーなど、エッジなアーティストによる展示を毎月2回のペースでご紹介予定です。
針生一郎オーラル・ヒストリー 2009年2月28日 針生一郎自宅にて インタヴュアー:建畠晢、加治屋健司 書き起こし:坂上しのぶ 公開日:2009年11月1日 針生一郎(はりう・いちろう 1925~2010年) 評論家(美術、文学) 東北大学で国文学、東京大学大学院で美学を学ぶ。マルクス主義芸術論を研究していたが、1953年『美術批評』誌で美術批評を始め、社会的な視点を持った批評を手がけた。多摩美術大学教授、和光大学教授、新日本文学会議長、美術評論家連盟会長などを歴任し、東野芳明、中原佑介と並ぶ戦後日本の代表的な美術評論家として活躍した。本インタヴューでは、軍国主義に傾倒した青年時代、戦後の研究会の活動や展覧会の企画、批評家や文学者、美術家との交流、文学への変わらぬ思い、モンテ・ヴェリタに関する関心などについて話していただいた。当時国立国際美術館館長だったの建畠晢(現・京都市立芸術大学学長
『夜の画家たち』などの著作でドイツ表現派や幻想派の画家を紹介、評論活動、執筆活動をおこなう。深井克美など無名の芸術家の紹介にも力をそそいだ。1985年9月7日に自殺した盟友鴨居玲の後を追うように同年12月21日に自殺。 『夜の画家たち 表現主義から抽象へ』雪華社 1960 『マチス、ルオーと表現主義』近代世界美術全集 第6巻 社会思想社・現代教養文庫 1963 『クレー』美術出版社・美術選書 1963 『ヨーロッパ美術紀行』紀伊国屋新書 1965、紀伊国屋書店 1994 『母と子の美術館』朝日新聞社 1967 『抽象の源流 その先駆者たち』三彩社 1968 『幻想の建築』鹿島研究所出版会・SD選書 1969、新版1984 『反体制の芸術 限界状況と制作のあいだで』中公新書 1969 『幻想芸術の世界 シュールレアリスムを中心に』講談社現代新書 1969 『鏡の前の幻想』学芸書林 1970
宮地祥平 Shohei Miyachi 13 December, 2021 – 28 February, 2022 Opening night: 13 December, 19:30-21:30 + live performance by Shohei Miyachi, 20:30 • Diamonds Are Forever ft. The Container with Shohei Miyachi 28 January, 2022 At Club Metro, Kyoto In collaboration with: Jama Gallery / 協力: ジャマ・ギャラリー 宮地祥平(1989年静岡生)はコミュニケーション、アイデンティティ 、パフォーマンスのテーマを中心に制作を続ける写真家である。School of Visual Artsより写真学の美術学士号とPratt Insti
アビ・モーリッツ・ヴァールブルク(Aby Moritz Warburg, 1866年6月13日 - 1929年10月26日)は、ドイツの美術史家。1919年からハンブルク大学の教授を務めた。 ハンブルクの富裕なユダヤ人銀行家の家庭に生まれ育つ。祖先はイタリアからドイツに移住したセファルディムである。ボンとミュンヘンとストラスブールで考古学と美術史のほか、医学、心理学、宗教史を学ぶ。博士論文のテーマはボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》と《プリマヴェーラ》だった。 4人兄弟の長男だったが家業の相続を嫌い、家督を弟マックス・ヴァールブルクらに譲る代わりに、生家の経済的援助で研究を続けた。1896年には米国に旅して、ホピ族に関する人類学的研究をおこなっている(「蛇儀礼」)。 鬱病と統合失調症を患い、1921年、スイスのクロイツリンゲンにあったルートヴィヒ・ビンスヴァンガーの神経科医院に入院。19
SDGsはいい線行ってるんだけど、やっぱり中途半端というか、もっと宗教のような、宗教を越えるもっと上の概念としての全人類の理想を打ち立てないといけないんだよね。 人類皆兄弟とかってマジで死語みたいになってきてて、だからナショナリズムが台頭すんだよなって。 SDGsは名前からしてもう硬すぎで、Sustainable Development Goalsて、もうその時点でそりゃ揶揄されるわなっていう、優等生言葉というか。全然違くて、本来は名前をCompletely Defined Ideal of All Humanbeing ...Temporaryくらいにバカらしくしなきゃいけなかったって思うんだよね。 1.搾取構造により利益を得るすべての企業は直ちにその企業活動を停止せねばならない 2.すべての国のすべての代議士は、当該国の所得額順位下位10%の中から選抜され、その任期は4年を最長とし、再
この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(芹沢銈介の3文字目、白井昱磨の3文字目)が含まれています(詳細)。 試作小住宅(現・顧空庵) 1953年。東京都世田谷区から秋田県湯沢市に移築 湯沢酒造会館(秋田県湯沢市) 旧雄勝町役場(秋田県湯沢市・現存せず) 白井 晟一(しらい せいいち[1]、1905年(明治38年)2月5日[2] - 1983年(昭和58年)11月22日[3])は、日本の建築家。村野藤吾、吉田五十八、堀口捨巳、谷口吉郎らと並んで、昭和期の住宅において和風を手がけた代表的な建築家として知られる[4]。他に役場や静岡市立芹沢銈介美術館といった公共施設、銀行の建物も手掛けた[1]。 一方で、その独特な作風や言説から「哲学の建築家[1]」「哲人建築家」「異端の作家」などと称されることもある[4]。1950年代の「伝統論争」の論者としても知られる[4]。 生
ビクター・デビッド・グルーエン(Victor David Gruen、1903年7月17日 - 1980年2月14日)は、オーストリア・ウィーン出身の建築家、都市計画家。都市地域及び郊外地域の大規模複合施設のプランナーとして、世界的に知られ、特に郊外型大規模ショッピングセンター生みの親として著名である。アメリカ合衆国、カナダ、ヨーロッパ内のショッピングセンター及び都市再開発を数多く手がけた。また「ペデストリアンデッキ」の命名者としても知られる。 経歴[編集] ウィーン美術アカデミーで建築を学ぶ。社会民主主義者として政治活動も行っており、後にウィーン市長となるオーストリア社会民主党のフェリックス・スラヴィクと親交を持った。第二次世界大戦後、1954年、デトロイト・ノースランドモールというショッピング施設と周辺整備を、1956年にはミネアポリスのサウスデール・ショッピングセンターを手がける。こ
市民の活動と市内の空間資源をマッチングし文化資源(アーツフィールド)を創成する事業です。市民が独自の視点でユニークな空間資源を発見・提供し、その空間の楽しく新しい創造的な使い方をシェアしていけるように構想します。全世代の市民が街を共創するプラットフォームの構築を目指していきます。年間20~50箇所の新たなアーツフィールドをつなげ、3年で100箇所を目指しています。 パートナー企業様と連携することで多様な社会実験とも協働し、未来の街づくりに寄与していきます。※現在準備中
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