国立大学の法人化から約15年だが、法人化以前は、文部省と国立大学の職員は国家公務員の身分を共有しており、通常の人事で組織間の異動が可能だった。法人化後は、個々の大学法人が学長の下で独立して人事を行っており、法人化で、文部科学省は、若手の人材供給源と大学の管理職ポストの保証を同時に失ったのである。これを契機に、本省の人事政策は大きく転換すべきだった。しかし、官房人事課は自らの組織を守り、何ら変革に着手しなかった。文部系の人事担当は、水面下では、これまで通りにやれるという幻想を抱いたまま、変化する現実を直視しなかったのである。しかも、文部系の上層部は、そうした変革への不作為の責任を取ることが、まったくなかったのである。本省に勤務していた身としては、当時の危機感のかけらもない対応に、唖然とした記憶が残っている。私以外にも、組織の転落が始まったことを、強く意識した人間もいた。その予感は、今や現実そ
文部科学省が組織としての危機を迎えている。収賄で複数の逮捕者が出ている点は、個人の責任であるとともに、組織としての倫理観の喪失、コンプライアンスの失敗にある。公務員試験を経て同じように採用された人間が運営しているにもかかわらず、なぜ文部科学省だけが、こうまでみじめな失態を演じているのだろうか?結論から言えば、組織の病理現象という意味では、倒産危機を迎えている大企業と同じ要因がある。また、中央官庁としての政策立案機能の劣化がある。大きなターニングポイントになったのが、国立大学の法人化である。 文部科学省は、文部省と科学技術庁が統合されて誕生した役所である。文部省は、管理業務こそが行政である、つつがなく任期を全うすればよいという意識が強かった。一方、科学技術庁は政策の立案・実行こそが行政であるというスタンスであった。文部系では、何を成し遂げたのかわからない役人がなぜか偉くなっていく。本省の仕事
以上のように、国からの追加的な財政支出を前提にせず、大学改革を進めようとすれば、どんな思考実験をしようとも手詰まりになる。大学が財務面で窮乏化すれば、結果的に、我が国の教育・研究水準は相対的に低下することになる。どう取り繕っても大学自ら成果目標を下げざるを得ず、比較可能なデータでみれば、国際的な地位の低下がじわじわと続くことになるだろう。 もしも、国立大学に企業並みの競争を求め続けるのが正しいと判断しているのであれば、一定の移行期間を設けて私学化することにしたらどうか?文科省が検討している規制緩和のネタは、私学では既に実現していることばかりである。要は、私学になれば自動的に付いてくるのである。各大学から出てくる余剰人員の整理のためには、期限付きの清算事業団を設ければよい。また、国による財政支出が低減していくので、受益者負担が増加することになる。奨学金の拡充がなければ、家計から負担可能な範囲
仮説1として、予算額を維持したまま、入学定員を半分にすれば、当該学生から見れば、国費が倍増されたのと同じことになる。教員数が現状維持だとすれば、ST比は、大幅に改善される。授業料収入の減額は、受益者負担増と支出削減の組み合わせで補えるだろう。理屈の上ではあり得るモデルだが、国立大学への入学が狭き門になる。志願倍率が今のほぼ2倍になる計算だからである。こうしたエリート優遇の方針が国民に支持されるのかは、かなり疑問である。文科省が2015年6月通知で示した方向も、文系を縮小して学生を私学という受け皿に委ねることで、こうした作戦を一歩進めるものだったのかもしれない。それを明確に語らないのは、エリート主義の国立大学が国民受けしないと悟っているからだろう。 仮説2として、受益者負担を大幅に引き上げることが考えられる。ハーバード大学は、授業料だけで年間400万円の負担になるので、それと同等の教育水準を
大学改革という用語は便利だが、10年以上前から継続して使われており、現場では飽きられている。いつまでも終わらないからである。幻の永久革命のようなものである。そうなるのには理由がある。第1に、目標が不明確だからである。学長が替わるたびに、具体的な目標が変更される。ゴールポストが動くのである。改革の目標は、ほとんどの場合、組織見直しのような取り組みであって、成果のアウトプットではない。ましてや、アウトカムではない。こうした成果に係るデータが測定される頃には、経営者はとっくに交代している。第2に、学内で自主的に使える資源が不十分だからである。これは、利益を上げることを否定していることの裏返しである。国からのカンフル剤のような事業予算が切れれば、成果の維持は不可能である。第3に、文科省が改革を先導する実行力を持たないからである。美しい言葉を使えば、大学の自治を尊重しているからである。大学も、現状維
国立大学法人の歴史は、「競争」に彩られてきたが、1期6年のサイクルを2回経て、「協力」による価値創造の機会は確実に減っている。国大協は、性格の異なる国立大学間の利害調整に努力してはいるが、溝は拡大しつつあり、事態は容易でない。恐らく団体としての解体過程を遅らせるのが精一杯といったところであろう。国立大学法人は、「競争」によって利害対立されてきたのである。例えば、産業競争力法に基づいて、国から総額1000億円の出資を受けたのは、なぜか東京・京都・東北・大阪の4大学のみであった。第3期からは各法人に重点支援の3種類の枠組みを選択させ、グループ化が進んでいる。28年度にも「指定国立大学」(仮称)制度が発足する予定で、指定とそれ以外に分かれる。また、医学部附属病院を地域の別法人へ切り離す動きが顕在化している。これを文科省への三行半だという人もいる。さらに、法人ごとに事情は異なるが、運営費交付金の削
グループ(3)の発表については、データ分析、強み分析は完璧だった。ただし、提案内容は平凡で、論理性にもやや欠けているのが残念。分析力が高かったのは、スーパーグローバル大学事業の応募に従事している職員がいるからだろう。方策は組織再編に偏りすぎ。また、部局事務と本部事務の間にもう一つの層を作るという内容は、屋上屋ではないかと感じた。また、もう少し広い視野で検討すべき。研究時間を増やすには何をすべきかと徹底的に掘り下げる必要があったが、その問いが甘かったように感じる。効果的・効率的な支援体制の組み方は、問題解決の戦略が明確でないと、すとんと腹に落ちない。留学生が更に増加すれば教員はより時間を取られるだろうから、いかなるサービスを展開して、研究時間を確保するのかというような問題の立て方をしてもよかったのではないか?事務の負担にも限界があるので、アウトソーシングすることも考えられる。 総括すると、国
2014年9月に、国立大学法人筑波大学で行われた主任を対象とする研修で、半日ほどのワークショップを担当したが、その際に感じたことをまとめてみたい。参加者は、他機関からの2名を含めて11名であった。グループワークは、筑波大学の強みを生かすために業務・組織を改革するアイデアをまとめて、プレゼンするというものである。どのようなテーマを選択し、現状を分析し、目標を立て、それを実現するための方策を提案することができるか、主張の論理性、提案の総合性を評価基準とした。評価については、2名の部長にも参加してもらった。正味4時間半のうち、70分程度を各自からの長い自己紹介に使った。これまでの仕事の内容、そこから学んだことに関して述べてもらうものである。短い時間でお互いに関する本質的な情報交換ができたと思うが、同じ大学という職場にありながら初対面の人とうち解けるには至らないままに、3つのグループに分かれて作業
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