法政大学社会学部准教授の白田秀彰先生(専門:知的財産権法・情報法) のつぶやきです。あまりに出来がいいので保存用にトゥギャりました。誰でも編集可にしてありますのでご自由にどうぞ。 ロージナ茶会 http://grigori.jp/ ロージナ茶会の日常を、あなたに(ブログ) http://grigori.sblo.jp/ http://grigori.sblo.jp/
![白田秀彰先生「原発推進派や反対派があるのなら、原発白樺派や原発耽美派があってもいいのでは?」](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/cd0ca22ef23c3b57691cfb7ba2ed543a60ec2e3d/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fs.togetter.com%2Fogp2%2Fe581bf4704244e0523fae0e1086a173f-1200x630.png)
特別公開企画 アフター・メタヒストリー ―ヘイドン・ホワイト教授のポストモダニズム講義― ヘイドン・ホワイト 「ポストモダニズムと歴史叙述」 English Page まず最初に、ポストモダニズムとは、一つの時代を画する自己意識、20世紀のモダニズムが生み出した確実性が失われた状況下で仕事や創造を行わなければならなかった多くの芸術家や知識人が共有してきた感覚を示す言葉である。 事実、ポストモダニズムは、啓蒙主義の時代以来「進歩」への西洋の信頼を支えてきた確実性、客観性、その土台、さらには真理そのものへの探究が崩壊した、その廃墟の上に生み出された。 それゆえ、ポストモダニズムという言葉は、際だって近代的なものとされているような確実な認識内容、またはユートピア的願望というより、むしろそれが、啓蒙主義の時代以降、哲学的、社会的に受け継がれてきたものを否定し、拒絶し、あるいは単に放棄してきたことに
世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか (光文社新書)/菅原琢 本屋さんでパラパラと読んでいて、おもしろい!と思って即買。あとがきを読むと、「犯罪不安社会」、 「子どもの最貧国・日本」 でもお世話になった担当編集、黒田さんではないですか。骨のある著者を出されますねえ。刺激になります。後藤さんも評価、参照されつつ、データの解釈のところできちんと批判されていて、はじめて内容で指摘受けられたんじゃないかしら。きっとこの本喜ぶだろう、お知らせしなきゃと思っていたら、すでにtwiiterで喜んでいらっしゃいました。まだちゃんと読み込んでいないので、内容についてご紹介するのは、今控えますが、「このように若者の右傾化をめぐって、いくつかの見解、議論が各所から提示されている。しかしこれらの指摘は、それが新書や雑誌記事という媒体でなされていることを考慮しても、実証性に乏しいものばかりである。これらの議論で取り
我々の時間についての遠近感は、時としてとんでもなく歪むが、それに気付く機会があまりない。 だから、何か一つの事項について年表をつくると、背筋が伸びるかのように、縮んでいた時間感覚を修正できる。 自分の経験だと、自分が生まれる前の、近現代あたりが、かなりアバウトにいっしょくたにされていることが多い。サルトルの『嘔吐』がベストセラーになるのはもっとずっと後のように思っていたが、実際は1946年である。 これは周りに質問してみるといい。世代によっては「70年代あたり」に「サルトルがブームだった」となってたりするので、自分と違う世代の人と質問し合うとおもしろい。 ベストセラーの悪口をいうにしても、ファクトを整理しといた方がいいと思って作った私物くさいリストであるが、いろいろツッコミどころや「発見」のしどころがあると思うので公開してみる。 現在に近づくほど、これまた私見だが、ベストセラーと
SB新書6月の新刊は3タイトル! 試読版も公開中!! 2018年6月のSB新書は、『AI時代の子育て戦略』(成毛 眞 著)、『「発達障害」と言いたがる人たち』(香山 リカ 著)、『飲んではいけない認知症の薬』( 浜 六郎 著)の3タイトル! 試し読み版も公開中です!! >>試し読み版の一覧ページはこちら
「暇すぎて死にそうなので>>4の半生でも聞こうと思う」(ニコニコVIP2ch) 【はてブ】 凝った筆名や実名ではなく、「4」「325」など、番号だけで「自分語り」がされていく。 本当に目指すべきはこっちだ。 2000年前後に「当事者本」が流行ったが、そうした本の著者名には、「>>4」という意味しかない。 誰が語ろうと、それは数ある検証素材の一つであり、番号のついた一事例でしかない。 ところが商業的には、あくまでキャラ立ちが目指される。 「この人はいかに特殊か」という演出で、商品の価値が仮構される。 現代人の社会化は、常にこのように詐欺的な方法をとる。 「自分はいかに特権的な一回性か」を、ウソをついて誇示する。 商品市場では、自分をフェティッシュとして確立できた人間の勝ちなのだ*1。 この方向には、ナルシシズムの確保しかない。 ちやほやされ、消費財として利用される「当事者」しかいない。 「当
日本社会学会大会が立教大学で開かれたので行ってきた。また風邪をひいたため1日目は少し遅れていったのだが、学内で結婚式を挙げているカップルもあり(噂ではキャンパス内にチャペルがあるらしい)、1日目はよく晴れていたせいもあり、美しいキャンパスがさらに美しく見えた(写真ではあまり美しく見えませんが、1日目はこれより100倍ぐらいきれいだった)。 今回は真面目にずっと参加していたのだが、全体的な印象としては、「方法論が失われているのではないか?」ということである。方法論とは、研究を進める手続きのようなものである。例えば学説研究ならば、コーパスのようなものを作り、その範囲内のテキストはきっちりと読み進めていく、といった常識的な手続きである。かつての農村研究にも、農村にフィールドワークに行くときは、こういう手順であいさつしたり話を通したり、資料を収集・整理しなさい、といった常識的な手続きがあったはずで
ヴォネガット関連でネットを探索していたら、斉藤環のヴォネガットの文章を見つけたのでリンクしておきます。 斎藤環は「ゲーム脳」批判でも有名ですが、この人の「オタクは一種の精神的病」といった持論も十分に怪しいというかいい加減なので、森教授も環もどっちもどっち(似た者同士の同族嫌悪くらいにしか思わない)だと思っています。 斎藤環【カート・ヴォネガット 「無害な非真実」の伝道者】 そう言えば、今発売している「小説トリッパー」で大塚英志と斎藤環が対談しており、そこで大塚英志が斎藤環に噛みついているらしく、何でも、斎藤環が最近の文芸時評で、舞城王太郎とか佐藤友哉とか、西尾維新とか乙一とか滝本竜彦といったその周辺の若手作家を「文学的評価」していることに対し、「あれらの作家には文学的価値などない! 文学としてみればゴミですよ! 糞ですよ! てめぇは無闇に連中を持ち上げているが、その根拠はなんだ!」としょっ
Dmitri N. Shalin, 1986, "Romanticism and the Rise of Sociological Hermeneutics," Social Research, Vol.53 No.1, pp.77-123. いわゆる interpretive sociology (verstehenden Soziologie =理解社会学の英訳なのだが、どうもピンとこない)をロマン主義の末裔として位置づけた論文。著者によれば、ロマン主義は個人の自由と主観(subjectivity) を重んじる。初期のロマン主義者として有名なヘーゲルやシュレーゲル、ヘルダーリンがフランス革命の知らせを聞いて、「自由の木」を植えた話は有名であるが、それぐらいロマン主義者は自由を愛していたという。しかし、フランス革命が粛清の嵐に、そしてナポレオン戦争へと変転していくにつれて、ロマン主義者た
今回は、橋川文三の日本ロマン派論を軸に、1950年代を素描し、ロマン主義と決断主義の関係を論じて、現代の論壇事情についても言及しました。 1 橋川文三は、1957年に日本ロマン派について考察をはじめ、その成果を雑誌に連載していった。それを60年に単行本としてまとめたのが『日本浪曼派批判序説』(以下『序説』)である。58年にはその中間発表として、雑誌「文学」に「日本ロマン派の諸問題」という論文を発表してもいる。雑誌「文学」はこのとき日本ロマン派の特集を組んでおり、橋川の論文はその一部をになうものだったのである。 国粋イデオローグとして戦争の片棒をかついだとされる日本ロマン派(とくにその首領・保田與重郎)について、戦後十年たったいまもなお、まとまった議論がまともになされていないという思いが当時の橋川にはあった。しかしそれと同時に、その思いを踏みにじるように「もはや戦後ではない」と喧伝されはじめ
asahi.Com http://www.asahi.com/obituaries/update/0527/TKY200905270111.html 訃報を知り、驚いている。 第9回本格ミステリ大賞の受賞者記者会見で、私は話した。江戸川乱歩のような過去の作品は子どもの頃から読んでいたが、同時代に生み出されたミステリを読んだのは栗本薫『ぼくらの時代』が初めてだった、と。同じく、同時代の文芸評論で読んだ最初の一冊は、中島梓『文学の輪郭』だった、と。今思えば、文芸・音楽評論家と称する円堂都司昭のジャンル横断体質は、初期の中島梓/栗本薫から受けた影響が大きい。 しかし、結局、本人にお会いすることのないままだった。 ご冥福をお祈りします。 『「謎」の解像度』のコンセプトからはズレていたため収録しなかったが、自分は過去に約60枚の中島梓/栗本薫論を書いたことがある。 http://noririn414
一年前ほど前に某紀要に書いた「魔法使いの肖像──サルトル『ユダヤ人問題についての考察』についての考察──」という論文をアップロードしました。 http://www.geocities.jp/sartla/ronbun/mahotsukai.html *1 これは、タイトルにもあるようにサルトルの『ユダヤ人問題についての考察』(邦訳は岩波新書の『ユダヤ人』)を論じたものです。この本で、サルトルは反ユダヤ主義者、「差別主義者」を批判しているのですが、同時にサルトルは、返す刀でというか、リベラリズム、民主主義者の「平等主義」をも辛らつに批判しています。そのことは、こちらhttp://watashinim.exblog.jp/8879908でも紹介されています。 サルトルは、民主主義者の「分析的精神」を批判します。 拙論から引用します。 分析的精神の考えるような社会では、個人は分解できない固い粒子
ごく一握りの誠実で有能な方を除いて——と言うことにしておこう、皆無と言う訳じゃない——現在日本で文芸評論家として活動している人間は、概ね二種類に分けられる。チキンと、無能者だ。まあ文芸評論などというのは小説以上に食えないから、出版社のお覚えを損なわないよう、業界の爪弾きにならないようチキン化するのは理解できないこともない。しかし無能者と言うのは! 読解し論じるスキルなぞ努力次第で使える水準まで上げることも出来ように、それを怠っているというのは、これはもう犯罪である。 だから文芸評論は使えないと作家に言われるのだ。チキンや無能者の評論を反省の種にする馬鹿はいない。評論と実作の間の良きフィードバックなぞ、勿論望むべくもない。 では仲俣暁生氏はどちらであろうか。ブログに載せていた2009年のベストを見る限り、チキンであることはほぼ間違いない。立派な御用評論家ぶりだ。ではスキルの方はどうか。 20
ちゆのごあいさつ はじめまして。私は、仮想世界に生きる“電子の妖精”ちゆといいます。実体を持った女性よりも空想の美少女が好きだ!という二次元コンプレックスな方のために生まれた新しい形のネットアイドルです。どうかよろしくお願いします。(バーチャルネットアイドル・ちゆ12歳) 80年代、オカルト雑誌『ムー』の文通相手募集欄を見ると、 「戦士、巫女、天使、妖精、金星人、竜族の民の方、ぜひお手紙ください」 「前生アトランティスの戦士だった方、石の塔の戦いを覚えている方、最終戦士の方、エリア・ジェイ・マイナ・ライジャ・カルラの名を知っている方などと」 といったお手紙がたくさん掲載されていました。 この発生時期について諸説あったので、簡単にまとめてみました。
斎藤環『アーティストは境界線上で踊る』(みすず書房)刊行記念のトークショー、 斎藤環×岡崎乾二郎 「アートに“身体”は必要か」 を熟読した(掲載は『みすず(no.563)』2008年8月号)。 これを私は、美術批評であると同時に、ひきこもり臨床論として読んだ。 岡崎乾二郎の議論は、斎藤環の「発想のあり方」へのあからさまな批判なのだが、斎藤は最後までそれに気づいていないように見える。 私はこの対談を、ひきこもりや就労支援の関係者にこそ読んでほしい。 誰かの努力や存在が社会的に排除され、誰かがぬくぬくと「内側」にいることになっている*1。 そこに批評を口にするときの態度の違いは、そのまま支援案のちがいになる。 排除された努力や存在を受け止めるときに(あるいは無視するときに)、どんな発想が必要なのか。 作品であり、労働過程である私たちは、単に全面受容されるべきではない。 では、どんな厳しさが必要
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