選挙が終わった。というよりは新しい体制での政治が始まるという方が正しいのだけど、ともあれその結果を見て、予想通りだという人もあれば、意外だという人もあるだろう。特に第三極の政策や政権公約に興味があった人の中には、結局のところ自民党大勝という結果に失望した人も多いのかもしれない。みんな党の名前しか見てないんじゃないか、と。 ところで、それよりも気になっていたのは、選挙直前になってネットのあちこちからあがった「選挙に行こう」の声だった。それ自体はとても大事なことだし、勢い余って「選挙に行かない人に政治に口を出す権利はない」とか「選挙に行かない男と付き合うな」なんて話が飛び出すのもまあ仕方ない(どちらも間違った意見だと僕は思うけど)。ただ若年層に関して言えば、近年むしろ政治への関心は高まっているし、昨今の調査ではネットを熱心に見ているのはむしろ30代から40代らしいので、どこまで的に当っているの
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昨日、片山さつき氏の人権天賦説放棄発言についての記事を書いたが、この記事に対する反応で、「権利行使に義務が伴うことは自然」という反論をする人がtwitterなどを見るとちらほらいたようである。 この、「権利行使には義務が伴う」というフレーズほど、誤解されているものは無いと僕は思う。今日は、その指摘をしておこう。 よくある間違いなのだが、この「権利行使には義務が伴う」というのは、「義務を果たすことによって、初めて権利が付与される」という意味ではない。権利行使を義務の対価と考えるのは、(近代の自由主義的な考え方の下では)正しくない。例えば、かつては日本にも一定額以上納税をしないと選挙権が無かったという暗い時代があったわけだが、「権利を義務の対価」と考えると、このような考え方を肯定することになりかねない。 「権利行使には義務が伴う」というのは、もっと単純な話である。例えば、僕には選挙権がある。投
茂木健一郎から斎藤環への手紙 ■拝復 たいへん興味深い手紙をありがとうございました。斎藤さんがあげられた問題は、どれも私の関心領域(意識の問題)の本質にかかわる、エッセンシャルなものと考えます。 お返事を差しあげるまでに、ずいぶんと時間がたってしまい、申し訳ありません。この間、斎藤さんとの往復書簡のことがずっと気にかかっていましたが、さまざまな事情から、ご返信が遅くなってしまいました。心からお詫び申しあげます。 斎藤さんがお手紙のなかでご指摘くださったさまざまな点は、たいへん興味深いことばかりでした。斎藤さんは、「クオリア」を疑いのないこの世界属性として立ててしまうことが、ナルシシズムにつながると書かれた。昨今のいくつかの危険な社会的風潮との関連性も指摘された。また、ジャック・ラカンの「我思う、または、我は在る」という言葉を引用して、(クオリアを感じる主体としての)「私」は、確固とした単一
⇒日本という国の残念さ――たった一人の赤ん坊のためには何億という金が集まっても、何十人程度の生徒には三千万円すら集まらない - こころ世代のテンノーゲーム この件について、はてなブロガー上位100名に謹んでトラックバックさせていただきます。日本がどのくらい残念な国なのかがこれでよくわかるでしょう。 ちょっと背景がわからない。 梅天さんのご家族に聾唖者のかたでその関係のかたがいらっしゃるのですか。 ちょっと該当エントリを読んだだけでは、聾唖者問題というより、「日本という国の残念さ」という、日本国の問題、というか、日本を問題するタメのダシにしているように見えるのだけど。 私は、こういう問題は、問うかたの背景や関係をまず見ます。そして、その問われるかたと私との関係を見ます。 梅天さんの、たとえば、お子さんがこの問題に遭遇していらして、また、私と梅天さんが、コメント欄等を介して、いわゆるブロガーと
キーボードを、持ち歩く。 久しぶりに、スマホ用のキーボードを使ってブログを書いている。 いくつかキーが壊れてしまっているので買い替えないといけないのだが、壊れるくらいには使い込んでいたんだなと思った。 当時は、今のようにPCを普段から持ち歩くことが少なかったので、出先でもブログ…
タイトルは半分だけ釣りです。 まず、私は誰の味方なのか? 自分でもわかりません。ただ、色々な人の主張における論点の食い違いを明らかにしたいと願う者です。 「性犯罪の数」だけが評価基準? YOMIURI ONLINEの記事に対するブックマークコメントでも何件か見られたのが「実際の性犯罪の件数が少なければいいじゃないかメソッド」。例として一件引用させていただく。 cubed-l エロゲ, 性 実際に罪を犯さない限りどのような嗜好でも自由であって欲しいな/正直この手のは広告ですら見たくはないけど、こういう嗜好を持つことそのものが犯罪のような言われようには違和感を感じる 2009/05/08 心情的には、私もb:id:cubed-lさんの意見に賛同したいところなんだけれども、おそらくこれではEquality Nowのような人たちとは議論がかみ合わないであろう。 昨日翻訳した声明をもう一度見てみよう
熟慮の末の決断だったに違いない。辞任したどこかの大臣ではなく、世界中にファンを持つ作家、村上春樹さんの話である。イスラエルのエルサレムで文学賞の授賞式に臨んだ彼はガザ地区への攻撃を周到に、そして手厳しく批判した。 ▼その講演は体制を高く固い壁に、それにぶつかって壊れる個人の精神を卵にたとえている。「私たちを守るはずの体制が私たちを殺したり、私たちに他人を冷酷に効果的に組織的に殺させたりする」。少しばかり難しい言い回しだが趣旨は明快だ。「壁と卵の間で、私はいつも卵の側に立つ」とも作家は宣言した。 悪いコラムではないし、まあ、ちょっとこういうのもなんだけど、その程度に読まれるのはしかたないなと思うけれど、春樹さんがあのスピーチで言いたかったことは、イスラエル対ハマスではないのですよ。もちろん、今回のイスラエルの対応は非難されるべきであることは普通に国連の動向からしても明白。そしてその明白な批判
(承前) 5. 「物語」への没入 一日で職場を後にする者がいる一方、踏みとどまる者がいる。過酷な環境で3年間にわたって働き続けている人物が自らの体験を綴ったノンフィクション(ということになっている本)を、参照してみよう。2ちゃんねるに書き込まれ、ウェブ上で多数の読者を得、のちに書籍化された文章である。「最終学歴が中卒で、10年前後NEETやってた」という筆者=「1」=マ男が、残業代不払い当たり前のブラック会社に就職し、異様な人間関係が支配する職場で、幾度も「限界」を感じながらもなんとか苦境を切り抜けていく。「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」と題されたスレッドで語られた――特に鉤括弧を付けてこの語を用いよう――「物語」だ。 結論から言って、観察されるのは、労働者が自発的にまとう「どうしようもない社会に対する態度」についての美意識、あるいは公共の政治の消失、私的空間での
0. 3/4oz = 21.2621423g ためらっているうちに、ずいぶん時間が経ってしまった。 後悔という感情だけは、とてつもなくリアルだ。嬉しいとか悲しいとか、好きだとか嫌いだとか、何が食べたいとか、綺麗だとか醜いとか、敬愛とか軽蔑とか、何が欲しいとか、そういうことはどれもひどく曖昧なのに、後悔だけは、ちょっと手を伸ばせば触れられそうなくらいに、そのねっとりとした手触りを想像できるくらいに、その質量を計測できそうなくらいに、実在感がある。 かつて、アメリカ合衆国マサチューセッツ州のダンカン・マクドゥーガルという医師が、魂の重さを測ろうと試みた。死ぬ直前の人間の重量と、死んだ直後のそれとを比較したのだ。はかりに乗せられた末期の肺結核患者は、水分の蒸発などによる質量の喪失を考慮に入れてもなお説明できない重さを、息を引き取ったさいに失ったという。1907年に発表された実験結果によれば、その
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