ちくわがマカロニと踊り狂う『ちくわのわーさん』、昆布巻きが漫才の相方を探し歩く『こんぶのぶーさん』……。目鼻のない食べ物たちによる奇想を描く、「知る人ぞ知る」謎な絵本作家・岡田よしたかさん。なんでまた、こんな作風なんですか?
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今年4月、映画監督の高畑勲さんが亡くなった。プロデューサーとして支えてきたスタジオジブリの鈴木敏夫氏が語る高畑さんの記憶――それは決して美談ではなかった。(#1、#2より続く最終回) ◆ ◆ ◆ この作品はいつ完成し、世の中に出せるのか。僕としてはいっさい考えていませんでした。完成したときに公開すればいい。そう腹を括って、予算を含めた態勢を組んでいたんです。間に合う間に合わないですったもんだすることに、ほとほとうんざりしていたということもあるし、高畑さんに気のすむまでやってもらおうという気分もありました。結果的に8年の歳月をかけて、日本映画史上最大の50億円もの予算を費やすことになるわけですが、僕としてはいっさい焦りを見せないようにしていました。 「かぐや姫」と「風立ちぬ」同時公開というアイデア それでも、完成の目処がついたと報告を受けたときは心が揺らぎました。というのも、西村が言ってきた
高畑さんが亡くなり、「お別れの会」を終えたいまも、気持ちが収まる気配がありません。徳間康快や氏家齊一郎さん、あるいは親父やお袋が死んだときも、葬儀を終えてしばらくしたら、心の整理はついたんです。ところが、今回はなかなか落ち着かない。気がつくと、すぐそこに高畑さんがいるんですよ。こんなことは生まれて初めてです。それだけ強烈な人だったということなんでしょうけど、正直なところ困っています。 お別れの会でも話しましたが、高畑さんと僕は最後の最後まで監督とプロデューサーでした。ある種の緊張関係がずっとあったんです。 鈴木敏夫(スタジオジブリ 代表取締役プロデューサー) ◆ ◆ ◆ 最初にじっくり話をしたのは、高畑さんが『じゃりン子チエ』を作っているときでした。当時の僕は『アニメージュ』の編集者。制作会社テレコムがあった高円寺の喫茶店でインタビューすることになりました。席に着くやいなや、高畑さんは先制
高木 これはね、許可をもらったの。ドリフは単品で仕事をするってことがありえなかったんですよ。でも、『ドリフ大爆笑』がひと区切りついて、もう好きなことしていいよってなった。そこで何をやろうか考えて、「そうだ、昔やってたハワイアンがある」って。だから、ドリフのメンバーも僕がウクレレ弾くって知らなかったと思う。 ―― 1999年にNHKでウクレレ教室の番組が始まりました。 高木 よく探してくれたなと感謝してます。でも、おかしいんだよ、NHKなのに“雷様”で出てるんだから。 ―― 高木さんのミュージシャンとしてのルーツは、ウクレレなんですね。 高木 戦争が終わって2、3年経った頃、15歳の誕生日に兄貴がウクレレ買ってくれたんだよ。そしたら、そのころ千葉の柏にいたんだけど、増田進って人から「ハワイアンやろう」って誘われたの。それで初めて、ウクレレを弾いた。 ―― きっかけは偶然だったんですね。 高木
「うれしいっちゃ、うれしいです。 でも、賞が欲しくて小説を書いている人なんていないだろうし、結果的に受賞できたのはよかったかなという」 気負わず飄々と、マイペース。7月18日に第159回芥川賞を受賞した高橋弘希さんのスタイルは、どんなときも一貫している。 受賞決定直後に開かれた記者会見でも、涙を見せたり声をうわずらせることなど一切なし。受賞の感想を聞かれると、冒頭のように応答した。 結果を待つあいだの様子を問われれば、 「とくに期待せず、ふつうに待っていました。受賞したら会見に出ないといけない、20時までに会場に来るよう言われたので急いで移動して、今ここに引っ張り出されている感じです」 受賞作『送り火』は青森が舞台。高橋さん本人が小さいころに暮らしていた土地でもあることから、その影響について記者から質問が飛んでも、 「青森で過ごしたことが作品に与えた影響は、じつはあまりないんじゃないかと思
2018年3月、愛媛県松山市を活動拠点にする農業アイドル「愛の葉Girls(えのはがーるず)」メンバーだった大本萌景(おおもと・ほのか)さん(享年16)が、自宅で首を吊り亡くなった。 「愛の葉Girls」はご当地アイドルブームが盛り上がりをみせていた2012年12月に、“歌って、踊って、耕すアイドル”としてデビュー。JAや自治体が主催するイベントなどで精力的に農業の魅力をPRする活動を続けてきたが、萌景さんの死を受けて、3月末で活動を自粛。デビュー以来、レギュラーメンバー・研修生を含めて10人以上が卒業や活動を辞退するなどして、最終的には5人編成となっていた。萌景さんの死から約2カ月。まだ心の整理がついていないという萌景さんの母親が、現在の思いを初めて語った。 ◆ ◆ ◆ ももクロが大好きで、アイドルに憧れていた 3月21日に萌景(ほのか)が亡くなってから、私たち家族の明るさ、家の光が失わ
さる8月15日、30年以上勤めた任天堂を退社しました。大学を出てからずうっと任天堂で玩具作りにかかわってきたのですが、55歳を区切りに自分のアイデアをもっと自由にいかせる仕事をしようと考えたのです。 もっとも、新しい門出に、いきなり洪水のような報道が襲ってきました。 退社する前日に、『日本経済新聞』が私のことを大々的に報じたのです。 いわく「ゲームボーイを開発した功労者が退社した。鳴り物入りで宣伝した『バーチャルボーイ』失敗の責任をとったものだ」 いわく「『NINTENDO64』が予想以上に売れていないため、任天堂の利益が大幅に減っている」 二つの「事実」を並べて読むと、読者には任天堂が大変な苦境に陥り、まるで内紛でも起こっているかのように思えるでしょう。 実際には、私は「『バーチャルボーイ』失敗の責任をとって」辞めたわけではありません。 前々から、55歳になったら、独立したいと考えていま
核心については明らかにされずに終わってしまった 弁護士同席の下で行われたこの記者会見、どのような経緯で事件にいたったかという核心については明らかにされずに終わってしまった、ただただ残念な話なんですよね。 もちろん、世間一般のアルコール依存な人たちについて、投げかけられる目線が冷たいわけです。本人の意志とは関係なく、つい酒を飲んでしまう、飲んだうえでいろいろやらかしてしまう……。これらは、社会通念上は「酒癖が悪い」とか「酒で失敗するタイプの人」などという、まるっとしたワードで語られて終わってしまいます。如何にも「意思が弱いからアルコールを断てないのだ」と。 5月2日のTOKIOメンバーによる記者会見 ©文藝春秋 でも、実際にはアルコール依存から脱却しようとすると、本人の意志の強い弱い関係なく、きちんとした治療は必要です。「もう飲まないぞ」となっても、きちんと見ていてくれる家族が必要だ。場合に
人気アニメ『アイドルマスター シンデレラガールズ』、諸星きらり役でおなじみの人気声優・松嵜麗。12万人を超えるTwitterフォロワー数を誇る彼女は、知る人ぞ知るガチのヤクルトファン。「ヤクルト愛なら、私も負けない!」と、今季から文春野球に緊急参戦。その胸の内を激白してもらおう! ――今季の文春野球・ヤクルトに、ぜひ松嵜さんに参戦していただきたいと思っています。 松嵜 ……あの、最初に聞きたかったんですけど、ホントに私でいいんですか? だって、他のメンバーは真中満前監督に、伊藤智仁前ピッチングコーチなんですよね? その中に私が入ってもいいんですか? ――もちろんです! 僕も含めて、真中さん、伊藤さんと40代後半ばかりのメンバーだからこそ、ガチのヤクルトファンの松嵜さんならではの視点や発想が必要なんです! 松嵜 本当にいいんですね(笑)? 力になれるかまったく自信はないですけど、ヤクルトへの
「約100人の同期のうち、すでに50人ほどが銀行を去りました」 こう語るのは有力地銀で入行8年目のA氏30歳。有名国立大を出て支店での個人・法人営業も経験、企画セクションで社長直轄の戦略立案を担ったこともある。 「金融商品のノルマに嫌気がさした人も多かったのですが、結局、安定していると思っていた銀行の将来が見えないことに不安を感じた人が退職したのだと思います。それが証拠に転職先は地元の県庁や市役所など公務員が圧倒的に多いです。もはや銀行は安全志向の人のための職場ではなくなりました」 かつて就職市場で銀行の人気は抜群に高かった。その背景には、給与の高さに加え、その「安定性」があった。つまり高給で「潰れない会社」だと思われてきたのだ。 しかし、それもすっかり過去の話だ。銀行は、今、大転換期を迎えている。 銀行は「安定性」を演出 預金者から資金を集め、企業に融資する銀行融資は、「お金を借りる人(
新直木賞作家・門井慶喜さんがオール讀物推理小説新人賞を受賞した時の選考委員だったのが『炎立つ』『火怨』などで知られる高橋克彦さん。 新人時代から直木賞まで門井さんを見守ってきた「文壇の父」と語る。 ◆ ◆ ◆ 高橋 この度は直木賞受賞、本当におめでとうございます。選考会でも圧倒的な評価だったようですね。 門井 ありがとうございます。 高橋 お会いするのは今日が初めてですが、私は門井さんが「天才たちの値段」で第39回オール讀物推理小説新人賞(2000年)の最終候補に初めて残られたときの選考委員でした。「天才たちの値段」は、美術作品の真贋を判断できる味覚を持った人物や美術史専攻の学者が、ボッティチェッリの絵画の謎を解いていくミステリーで、贋作を見抜く鍵の発想が素晴らしかった。当時の選考委員は西木正明さん、大沢在昌さん、宮部みゆきさんと私でしたが、このときの選考会では、最初の採点で自分以外の3人
最初はたこ焼きにかけるソースとして爆発的に売れた 神戸のオリバーソースの本社で出迎えてくれたのは、社長の道満雅彦さん、そのご子息で同社の「とんかつプロジェクト」のプロジェクトリーダー道満龍彦さんのおふたりだ。 まずは「とんかつソース」の始まりについて、社長にお話しいただこう。 オリバーソース道満雅彦社長 「うちが『オリバーとんかつソース』という世界で最初のとんかつソースを1948年に売り出した直後は、もうものすごい勢いで売れてました。それこそ関西一円から神戸までみんな買いに来てましたよ。しかしなんでそんなにとんかつソースが売れたかというと、最初はたこ焼きにかけるソースとして爆発的に売れたんです。とんかつじゃないんです(笑)。まず播州つまり神戸や明石で、たこ焼きにはサラサラなウスターソースではなく、濃厚で粘度の高いとんかつソースをかけるのが食文化として確立されて、次は東へ行って大阪。これはお
展示の全体を隈なくチェックし、矢継ぎ早に模型の並びを確認したり、キャプションの不備を見つけたり。何かを指摘するたび、スタッフが素早くメモを取る。発した言葉の一言一句を逃さぬ態勢が、手厚くできている。 室内をひと通り眺めわたすと、足早に屋外のテラス会場へと向かった。展示の目玉にして最大の懸案でもある巨大な建築が、そこに聳え立っていた。 代表作のひとつ「光の教会」である。とはいっても本物ではない。実物は当然ながら、大阪に今も建っている。こちらは1分の1スケールの模型である。いや、同じコンクリート素材を用いて寸分違わず造られたものだから、もはや模型とは呼べないだろう。もうひとつの本物、と言っていい。 「建築はまずもって体験しなければ、何もわかりませんからね。そこで思い切って実物大のモデルを建てることにしました。途中、もう無理かな、間に合わないかなとも思いましたが、なんとかなりました。ここまでする
樋口 最初に松尾さんに会ったのは、いつだっけ? 松尾 『MM9』ですよ。伝説の深夜ドラマ。あれがなかったら『シン・ゴジラ』はなかったという。監督が樋口さん、キャストに高橋一生、ピエール瀧さん、橋本じゅんさん……。そして『シン・ゴジラ』総監督・庵野(秀明)さんも出演してました。 樋口 粟根まことさんも出てました。『MM9』はもう5年前くらいになる? 松尾 いや、もっと前ですよ。僕に子どもが生まれる前ですもん。7年前ですか。 樋口 俺がもう映画に疲れてて、これからはテレビと配信の時代だって、テレビドラマをやってみたくなったんですよね。そこで一緒になって、仲良くなって、僕の撮るやつ撮るやつ全部に……。 松尾 いやいや、そんなことないですよ。『のぼうの城』とか全然お呼びがかからなかったですからね(笑)。5年くらい前に偶然会って、それで『進撃の巨人』の役をいただいたのが樋口さんとの2回目のお仕事です
『シン・ゴジラ』が大ヒットした。総監督は『新世紀エヴァンゲリオン』(以下『エヴァ』)の庵野秀明。観客動員数は400万人を突破し、興行収入は70億円を超えたという。客層の幅広さ、反響の大きさからして充分「国民映画」の域に達したと言ってよい。 成功の理由は何か。日本伝統の得意技を使ったからだろう。世界を重ねて、その世界に思い当たる観客を喜ばすやり方だ。歌舞伎や文楽の常套手段。『仮名手本忠臣蔵』なら『太平記』の世界と赤穂浪士の世界を、『東海道四谷怪談』なら忠臣蔵の世界にお岩さんの怪談話を重ねる。そうやって世界の重ね方を楽しむ。分かる観客は勝手に考え面白がる。想念を暴走させ、深読みもしてくれる。 第1作を巧みに本歌取り 『シン・ゴジラ』は具体的にどんな世界を重ねているか。まず土台を成す世界は1954年の本多猪四郎監督作品『ゴジラ』。「ゴジラ映画」の第1作にして傑作中の傑作。そこでゴジラは、伊豆諸島
◆ 「映画は実験場として使ってる」 ――大ヒット映画『シン・ゴジラ』では、おなじみの『ゴジラ』のテーマのみならず、“ヤシオリ作戦”決行時に流れた『宇宙大戦争』のマーチなど、伊福部昭の音楽に再び光が当てられました。クラシックファンのみならず、今なお多くのファンを持つ伊福部昭ですが、叔父様と『ゴジラ』の話をされたことはあるんですか? 伊福部 いやそれが、ないんですよ。ないというか、聞けなかったというほうが正しいかもしれない。叔父がその話をしたがらないところがありまして。 ――え! それはどうしてなんでしょう。 伊福部 「あれは違うもんだから」っていう言い方をしてました。「音楽は完結していなければならないから」って。叔父の著作に『音楽入門』というものがありまして、そこに映画音楽についても書いてあるんですが、あくまで映画音楽とは場面を強調したり、効果を与えるものであって、映画音楽自体を取り出しても
上坂 ズドラーストヴィチェ。よろしくお願いします。 ――さすがの発音ですね。今年はロシア革命から100年ということで、上坂さんにお話をお伺いします。 上坂 いいんですか、私で。亀山郁夫先生とかもっと詳しい方はたくさんいらっしゃると思うのですが……。 ――亀山さんでも、佐藤優さんでもなく、上坂さんなんです。 上坂 ありがとうございます。 ――そもそもなぜソ連がお好きなのか。その経緯からお話を聞かせていただけますか? 上坂 高校1年生のときに、YouTubeでたまたまソ連の国歌「祖国は我らのために」を聴いたんです。それまでは恥ずかしながら、モスクワがどこにあるかも知らないくらいだったんですが、国歌を聴いて急に興味が湧いたんです。それで関連動画を次々に見ていって、ソ連にはまったんです。 ――どんな動画を見たり聴いたりしたんですか? 上坂 レーニンの演説とか、プロパガンダ映画の一部とか、軍歌とか。
◆ マンガから実写より、マンガからアニメ脚本を書くほうが大変 ―― 小林さんは『ジョジョの奇妙な冒険』や『進撃の巨人』など数多くのアニメの脚本も手がけられていますが、『セーラームーン』では「実写ドラマ化」での脚本を担当されました。マンガからアニメというのと、違った作りかたになるんでしょうか。 小林 実写っていっても、三次元の役者を使って二次元を撮っているだけというイメージです。特に次元が変わるから、世界観を作り直してとか、そういう作業はないんですよ。むしろ、マンガ原作のアニメ脚本を書くのが意外と大変。 ―― どのあたりが難しいんですか? 小林 実際に絵コンテを描いている人でさえ気づいてなかったりするんですけど、マンガを映像にすると“疑似三次元”になる。たとえばですね、「時間」が生まれるんですよマンガからアニメに映像化した時に。 ―― 「時間」が生まれる? 小林 マンガをページをめくりながら
戦後72年。かの戦争体験の声が次第に聞けなくなっている今、証言者たちの“孫世代”の中に、声を拾い、研究を深め、表現をする人たちがいる。 戦争から遠く離れて、今なぜ戦争を書くのか――。 インタビューシリーズ第1回は音楽家の寺尾紗穂さん。ピアノ弾き語りや歌手活動の傍らで、戦争体験者の証言を集め「ノンフィクションエッセイ」として作品化し続ける理由を聞いた。 ◆ とりあえず今は動かなきゃ、話を聞いておかなきゃという気持ち ――新刊『あのころのパラオをさがして』は、サイパンなどを取材した『南洋と私』と同じく、寺尾さんが現地に足を運んで「あのころ」を知る人たちに話を聞き歩いています。なぜ、そこまで「南洋」の「あのころ」に惹かれているのですか? 寺尾 知らないことだらけなんですよね、戦中の南洋諸島と日本の関係って。そもそもは中島敦に誘われるようにして、南洋に関心を持ち始めたんです。大学のとき、屋久島に文
1967年、深夜ラジオの世界に革命が起きた。それまで大人向けにお色気番組を流していた時間帯に、次々と若者向けの番組が始まったのである。その一つがニッポン放送の『オールナイトニッポン』(以下、『ANN』)だ。数々の才能を発掘し、情報の発信源として時代を牽引してきた『ANN』が、今年10月で50周年を迎える。そこで、70~80年代に黄金時代の『ANN』のプロデューサーを務めた近衛正通さんにお話を伺った。 近衛さんは、タモリ・たけし・さんまのBIG3を『ANN』に起用した張本人でもある。あの時代の深夜ラジオに何が起きていたのか。第1回はジャズつながりで“発掘”したタモリの伝説を、秘話満載で語っていただいた。 面白いこと言ってもまわりに笑ってくれる人がいない、が放送の原点 ―― 『ANN』が始まったのは、近衛さんが入社する半年前なんですね。近衛さんが『ANN』を担当したのは、いつからですか? 近衛
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