「出版業界の未来と本の未来は同じではない」、というのが本書での主張のひとつだ。確かに、紙媒体であることを前提とした書籍は売り上げが減少していたり、インターネットや電子書籍などの登場などにより、縮小再生産の道をたどっているかもしれない。けれども、本書で提唱されているのは、「本」を狭い定義の中に押し込めないということである。「あれもこれも本かもしれない」と考えることが、これから「本」の仕事をするにあたっての重要なことになってくるのだという。 「本」の定義を拡張するとは具体的にどういうことだろうか。それは本書の中で多くの事例を挙げながら説明されているが、「本」という概念をスキーマのように捉えてみるとわかりやすいかもしれない。フロイト派の精神分析家、ジャック・ラカンは「無意識は一つの言語活動として構造化されている」といったが、つまり、「本」という言葉の持つ意味のまとまりや機能の方を主体とする時、そ
「思考を継続させることの必要性の前提に立ち返るために」、映画『ハンナ・アーレント』(監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ) 「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました、それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残酷行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。」(訳:吉川美奈子)。 私たちはある残虐な行為の存在を知った時、それは特殊なケースなのだと思いたがる。ナチス・ドイツによる組織的なユダヤ人虐殺の責任者であるアイヒマンがエルサレムで裁判にかけられた時、多くの人々はそこに特殊な「悪」のかたちがあることを望んだ。もちろん、そこで行われたことは史上最悪とも言えるもので、そう考えるのは当然かもしれない。けれども、その裁判でアーレントの目に映ったその人物は、驚くべきことに実に凡庸な人間だったのである。「悪
port Bの演劇作品「東京ヘテロトピア」は、多くの人たちにとって「演劇」という言葉の持つイメージを大きく逸脱しているかもしれない。確かに、業界内では一般的になってきたものの、ツアーパフォーマンスという手法は、いまだに「演劇」の持つパブリックイメージとはズレたところに存在しているといえるかもしれない。けれども、本作品は紛れもなく「演劇」なのである。もしかしたらそれは例えば、「麺の入ってないラーメンを如何にラーメンの概念に当てはめるか」といったようなアクロバティックな思考実験と同等にみえるかもしないが、決して奇を衒っているわけでもない。 では、このツアーパフォーマンスという手法で形成されるこの作品が、「演劇」である根拠はいったい何処にあるのだろうか。それは「演劇」が歴史的、社会的に果たしてきた機能にある。そのことを確認するために、演出家の高山明氏の文章を少し長いが引用してみよう。 シアター、
「環境管理型社会における想像力と民主主義の探求」、『福島第一原発観光地化計画 思想地図β vol.4-2』(東浩紀 編) 本書の根底には、「人間は忘れやすい動物であり、また驚くほど軽薄な存在である」という人間観が流れている。このことは巻頭言で責任編集の東浩紀氏が明言しているが、本書で提示されている観光地化プロジェクトがネット上などで多くの人たちに拒否反応を引き起こしている理由のひとつは、おそらくこの人間観にあるのだろう。 しかしここで重要なのは、この人間観が東氏個人の人生訓のようなものではないということだ。人間は忘れる。そして、自分とは関係のないとみなした他人を景色のように見ている。いや、多くの場合、景色にすらならない。多くの人々にとって世界というものは、関心よりも無関心に溢れている。 そのような現状を前提にして強い批評的機能を発揮するためには、人びとが暮らす環境の設計に介入することが必要
【プロフィール】 藤枝 奈己絵(ふじえだ・なみえ) 漫画家。1999年ヤンマガにてデビュー。 約2年間の居候生活の後、シングルマザーたちの共同生活のためのシェアハウス「沈没ハウス」にて暮す。その後、結婚・出産。 只今アックスにて「混乱日記」を連載中。単著は『変わってるから困ってる』『夢色お兄ちゃん』。 ーー 藤枝さんは大阪のご出身でしたよね。東京へはいつ頃どのような経緯で来られたのですか? 藤枝奈己絵(以下、藤枝):最初に東京に来たのは1999年あたり。私が23、4歳の時ですね。それまではずっと実家で暮らしていました。きっかけは図書館で読んだ雑誌『SPA!』に、だめ連の人たちが集まっている「あかね」という場所が載っていたんですね。「そこにはダメな人たちが集っている」と書いてあって。私もまったく仕事をやる気がなかったし。自信もなかったんですが、友達は欲しかったんですね。それで「あかね」だった
劇評「不条理から実存を立ち上げる日常演劇」、集団:歩行訓練のコックピット『ゲームの終わり』(原作:サミュエル・ベケット『勝負の終わり』 演出:谷竜一) 1.『集団:歩行訓練』について 本公演を行った『集団:歩行訓練』は、山口県山口市に拠点を置く舞台芸術ユニットだ。昨年は国内最大の演劇祭「フェスティバル/トーキョー12」(F/T12)で公募プログラムにも参加している。演出家の谷竜一氏は福井県出身。大学進学から山口で暮らしはじめ、卒業してからも拠点を変えることなく現在に至っている。 本公演の特設サイトにアップしてあるメモ(「メモ/何故今、『勝負の終わり』なのか?」https://hokokuncockpit.tumblr.com/post/61516802046)で明かされていることだが、谷氏の父親は福井県の町役場の職員で、母親の叔父の一家は関西電力の職員だという。福井県といえば「もんじゅ」と
個々人の専門性への特化は、消費者へのサービス向上へとつながるものだ。当然、それ自体は否定されるものではないだろう。けれども、市民が専門家によるサービスの「受け手としてだけ」になると話は違ってくる。なぜならそれは、市民が受動的に、もっといえば、無能力になっていくのを推し進めていくことになるからだ。 その問題は近年、3.11などの出来事に対応することの出来ない狭義の専門家への懐疑などといった具体的な形になって、目の前に現れているといっていいだろう。そのような専門家への信頼に基づく「知」の在り方が成立しない事態が起こっている時、私たちはどのような「知」のあり方を再構成する必要があるのだろうか。本書では、「専門的知」と「市民的知」という2つの知性を有機的につなぐ必要性を説いている。 そのような「パラレルな知性」のあり方をどのように育てていくのか。それは「市民性」の成熟の前提として、問題解決のための
「近代政治哲学の欠陥に対する哲学者としての応答責任。」、『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(國分功一郎 著) 著者である國分さんが関わっている小平市の問題は、その場所の住民たち以外にとってあまり関係のないことのように思われるかもしれない。たとえば、緑の党などのイデオロギーの代理闘争のようにも見られているところもあるだろう。しかし、ここで提示されているものは、全ての人々にとって無関係ではいることができない問題なのである。これは、日本における「民主主義」の現在を問うものなのだ。 現在、日本においては「民主主義」への懐疑まで議論にあがってきている状況だが、例えば、それは「戦争」を巡る解釈ともリンクしているものでもある。この「民主主義」と「戦争」というふたつのテーマは、今の政治的コンテクストの中で最重要の問題を孕んでいるといえるだろう。しかし、「民主主義」を押し進める
現代日本における「批評」の源流の多くは、小林秀雄の仕事の中に見出すことができる。それは小林が「日本の近代文芸批評の確立者」として名高いことからも推測することができるだろう。だが、その思想は多くの批判をも浴びているのも確かだ。その批判の中で特に重要な批判だと思われるのは、彼の「批評」のスタイルに対してのものである。それは対象を「直観」で捉えることを重視しすぎているという批判である。そのため、論理展開が飛躍したり、分析とはかけ離れた「批評」が生まれる。つまり、小林の「批評」は「非論理」的であるという批判だ。 もちろん、この批判には一理あるだろう。なぜなら、その「批評」のスタイルは人類の歴史を進歩させると思われていた科学的態度からほど遠いようにも見えるからだ。しかし、そこには徹底して実践的な「論理」が存在している。広く人々の心を動かすことによって、科学思想によって零れ落ちていく人格の尊厳を掬い上
虫の声が響いている静かな井の頭公園の中にそのテントは建っていた。台風が関東に到着する前日に、濡れた草木や地面が夜に溶け込んでいるようなその公園の中で。その夏の終わりの冷めていてしっとりとした湿度の中で。何かの依り代のようなそのテントからは光が控えめに零れでている。 劇は様々なパートのパッチワークからその姿を構成されていた。それぞれのパートは役者たちによってバラバラに書かれたものだという。それらを演出家が配置していくのだが、その配置の仕方も例えば、着替えの時間の必要性だとか、そういった物理的な必然性によるところが大きいという。もちろん、この物理的な制約は全ての演劇において無関係ではありえないが、この強い物理的な制約がひとつの演出のように機能しているということが、特に「どくんご」という劇団において重要なことのように思われた。なぜなら、強烈なマテリアル感がその特徴であるように思われたからだ。 あ
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