天武・持統天皇陵の東南東部分の写真。凝灰岩の石材が八角形の角を作るように敷かれている(桧隈大内陵遺構調査中間報告より) 奈良県明日香村の天武・持統天皇陵(桧隈(ひのくま)大内陵)を宮内庁が約50年前に調査し、報告文書をまとめていたことが、読売新聞の情報公開請求でわかった。文書では、墳丘は、測量や石材の配置から7世紀代の天皇陵に特有の八角形であると記述。従来、中世の記録を基に八角形としていたが、実地調査で形状が判明したのは初めて。学術的に重要な結果だったが、公表されておらず、研究者は「調査結果は速やかに公開してほしい」と要望している。 文書は1961年11月1日付と同月8日付の計4枚で、59年と61年撮影の白黒写真計約80枚も添付。「桧隈大内陵遺構調査中間報告」と題している。文書によると、墳丘外周で8角のうち6角が確認でき、各辺は14・7~15・3メートル。写真の中には、凝灰岩の切石を敷いた
→紀伊國屋書店で購入 本書の帯に、1991年に天皇が初めてインドネシアを訪問したとき、インドネシアの有力紙に掲載された社説の題「傷は癒えたが傷痕は残っている」が大書されている。「[日本の占領・軍国主義化の]苦しみと残虐な外傷はまだ残っており、彼ら[国民]の脳裏に焼きついているとしても当然であろう」という「国民感情の底流にあるものを厳しく凝視」したこの社説は、東南アジアで比較的犠牲者の少なかったインドネシアでも、深い傷跡を残していることをあらわしている。最大の激戦地となり人口の7%の110万余が犠牲になったといわれるフィリピンでは、その傷はさらに深く、「その傷口からの流血は見えないところで今でも続いて」いる、とフィリピン第一の研究者は述べている。 それにたいして、日本では「欧米諸国の圧制に苦しんでいたアジア諸国の独立回復を早めた点は、評価すべきだ」という解釈が早くから根強く存在し、それは19
資料の概要 昭和15(1940)年8月撮影の記載がある空中写真で、京都府南部の28枚と索引図1枚の全29枚で構成されています。 ケント紙の台紙に引き伸ばし写真をモザイク状に貼りあわせて、1/3,000の都市計画図と同じ範囲と縮尺になるよう成形されています。 台紙の大きさは縦79cm×横99cm、写真自体の大きさは縦62cm×横76cmで、うち周辺部の12枚が不完全なままとなっています。 都市計画図は、昭和10(1935)年に作成されたあと昭和28(1953)年まで作成されていませんが、その間に作成の意図があったことをうかがわせる資料です。また、当時の京都府南部の状況が空中写真でのこされている事例は確認されておらず、非常に貴重な資料といえます。 <索引図>
思想家、安藤昌益宛ての手紙見つかる 八戸の資料館 安藤の著作「自然真営道」24巻の表紙。デジタル処理すると、裏に貼られた手紙の文字が浮かび上がった(安藤昌益資料館提供) 秋田県大館市生まれで青森県八戸市などで活動した江戸中期の思想家、安藤昌益(1703~62年)宛ての貴重な手紙が、著書「自然真営道」の表紙から見つかったと、八戸市の安藤昌益資料館が23日、発表した。肉眼では見えないが、複製本を作るためデジタル写真を加工したところ、表紙の補強に使われた手紙が透けて見えた。 手紙は、自然真営道の原稿をまとめた「稿本」から見つかった。東大総合図書館が保存するデジタル写真をダウンロードし、ことし3月まで2年かけて複製本を作成中、現存する12巻のうち2巻で確認した。判読できた部分は、「□月五日 権□ □藤正益様」「□藤昌益様 貴報」など。三浦忠司館長は「安藤に宛てた手紙であることは間違いない。本文を
ノウハウは公開してもまったく問題はない。なぜなら、大変なのは「実行する」ことだから。アイデアは「モノ」にしなければならない。設計がいる。材料がいる。 (山崎将志『残念な人の思考法』(日本経済新聞出版社、2010)p.76) 残念な人の思考法 日経プレミアシリーズ 作者: 山崎将志出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社発売日: 2010/04/09メディア: 新書購入: 11人 クリック: 186回この商品を含むブログ (114件) を見る 私の手の内がばれたところで大勢に影響はないわけで、引き続き作業設計を見直している。 本記事は、先日書いた 日本史研究とWebサービス の続編として、Webサービスなどを使って収集した情報を、アウトプットにもっていくために使っているものを中心にして色々書いてみたいと思う。「Webサービスの次が何故文房具なのか」と笑われそうなのだが、私の場合、前回も示したフ
釈迦の入滅を描いた「絹本著色仏涅槃図」(部分)。横たわる釈迦の前で、弥勒菩薩が花を受け取っている=石山寺提供 大津市の東寺真言宗大本山・石山寺の重要文化財「絹本著色仏涅槃図(けんぽんちゃくしょくぶつねはんず)」(鎌倉時代初期)は、釈迦の入滅後に現れ、民衆を救うとされる弥勒菩薩(みろくぼさつ)を主人公に描いたとする説を、安嶋(あじま)紀昭・広島大教授(仏教絵画史)が打ち出した。 涅槃図は本来、釈迦信仰を表すが、安嶋教授は「末法の世になり、釈迦よりも弥勒の救済力を重視した学僧が、『ダ・ヴィンチ・コード』のように思いを秘めて制作を指揮した仏画だ」と指摘している。 涅槃図は通常、入滅した釈迦の周囲で菩薩や動物が悲しむ姿が描かれるが、石山寺の同図(縦280・6センチ、横294・6センチ)は悲しむ者が少なく、飛天や楽器が空を舞う類例のない構図が見られる。 安嶋教授は2003年から、菩薩や人物など計81
陸軍内部でも存在が秘匿された諜報(ちょうほう)員養成機関・陸軍中野学校の1期生に関する陸軍大臣への「卒業報告書」が見つかった。 終戦直前、関係資料は焼却されたとされ、創設時の教育内容が公文書で確認されたのは初めて。爆破実習や写真技術をはじめ、忍術もカリキュラムに含まれていたことが明らかになった。 アジア歴史資料センターが公開した防衛省防衛研究所の資料の中から、山本武利・早稲田大名誉教授(情報史)が見つけた。 中野学校は、「後方勤務要員養成所」として設立されたと考えられてきたが、更に前身として「防諜(ぼうちょう)研究所」が1938年4月に、東京・九段に設立されていたことが報告書で判明。翌年、中野に校舎を移して養成所に、40年に中野学校に改編。45年の廃止までに約2300人が卒業したとされる。
全国12館の歴史民俗系博物館長が発起人となり、「全国歴史民俗系博物館協議会」が発足するとのプレスリリースが国立歴史民俗博物館よりでています。 この「全国歴史民俗系博物館協議会」は、歴史民俗系の博物館はこれまで館種別の組織がなく、東日本大震災の際に相互連携による速やかな救援活動を行えなかったとの反省を踏まえ発足するものとのことです。 Ref. 「全国歴史民俗系博物館協議会」の発足および設立集会の開催のご案内(国立歴史民俗博物館プレスリリース) http://www.rekihaku.ac.jp/others/press/p120614.html 全国歴史民俗系博物館協議会(仮称)の立ち上げにあたって(2012/4/26付け) http://www.rekimin.com/about.html 全国歴史民俗系博物館協議会(仮称)設立集会 http://www.rekimin.com/news2
国分松本遺跡で出土した、古代の戸籍計帳制度関連では最古となる木簡。図の文字中、□は1字、[ ]は複数字の痕跡があるが読めない箇所。( )内は可能性のある字。[以下は破損のため不明=福岡県太宰府市で2012年6月12日、和田大典撮影 福岡県太宰府市の国分松本遺跡から、7世紀末の戸籍作成に関係する木簡が見つかった。「戸籍」「計帳」の制度にちなむ木簡としては国内最古。12日、同市教委が発表した。大宝律令(701年)で確立したとされる戸籍計帳制度は、古代律令政府の住民支配の根幹だが編さん過程は未解明で、木簡はその源流を探る上で画期的な発見だ。 出土した木簡に書かれていた行政区画や人の冠位の表記から、同市教委は木簡が685〜701年の作成と推定。大宝律令以前の、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)(689年)時代の資料と見られる。 木簡10点のうち、1点(31センチ×8センチ)は冒頭に、福岡県旧志
唐(とう、拼音: Táng、618年 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国であり、中央アジアや東南アジア、北東アジア諸国(朝鮮半島や渤海、日本など)に政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。 西晋の滅亡以来、中国は300年近くに渡る長い分裂時代が続いていたが北朝隋の文帝により、589年に再統一が為された[3]。文帝は内政面でも律令の制定[4]・三省六部を頂点とする官制改革[5]・郡を廃止して州県制を導入[6]・科挙制度の創設[7]など多数の改革を行った[8]。 604年、文帝崩御に伴い文帝の次男の楊広(煬帝)が後を継ぐ[9]。煬帝は文帝時代から引き継いだ大運河・洛陽新城などの大規模土木工事を完成させた[10]。さらに612年から3年連続で高句麗に対して三度の大規模な遠征を行うが、いずれも失敗に
アーカイブ RSS 1リアクション 5月 6, 2012 200年頃のローマ帝国を旅する際にかかる時間とコストをGoogleマップ風に教えてくれる“ORBIS” アメリカのスタンフォード大のプロジェクト“ORBIS: The Stanford Geospatial Network Model of the Roman World”が正式公開された。 このプロジェクトは、紀元後200年ごろのローマ帝国内の2地点を旅する場合に、時間とコストの面でどのくらいかかるのかを、Googleマップ風に教えてくれるというものである。 751の地点を基に、およそ1,000万平方キロメートルの領域をカバーしている。もちろん、ローマ道だけでなく、海や川の交通網もおさえている。 2地点間の算出にあたっては、それらの交通網を、牛車、荷物満載のラバ、徒歩、行軍、ラクダのキャラバン等の14通りのモデルで移動した場合に
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