分析哲学批判の一つのパターン 分析哲学批判には一つのパターンがある。 いくつか例を挙げてこれを示そう。 山口尚による分析哲学批判は、一言で言えば分析哲学のスポーツ性を問題にしている。 この「スポーツ性」なる性質は「「手を変え、品を変え」という迂遠なやり方で何とかアプローチしてみたい」という彼の言葉どおり、記事では定式化されていない。 気になる方はぜひ直接読んでいただきたいが、この記事でもいずれスポーツ性の内実に関する記述に触れることになる――思わぬかたちで。 「スポーツ」という表現の参照元はジョン・マーティン・フィッシャーの言葉である。 私はかつてハリー・フランクファートが述べた次の不満がよく分かる。それは、彼の事例をめぐる文献はいまや「若者のスポーツ」だ、という不満である。 分析哲学のスポーツ性に対する不満はフランクファート、フィッシャー、山口に共通のもののようだ。 さらに、山口の記事に