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historyに関するk-holyのブックマーク (231)

  • 『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』まえがきに代えて|Pençdiraht

    2024年3月18日、ロシアによるクリミア半島の「併合」から10年が過ぎました。この10年間にクリミア半島とその周辺で起こってきたことを考えると暗澹たる気持ちしか浮かびません。国際社会の平和と安定、地域住民の幸福に少しでもつながる未来があることを祈るのみです。 10年前、クリミア情勢をめぐってクリミア・ハン国とクリミア・タタールという存在が日語の言説空間で認知される中で、かつて無謀にもクリミア・ハン国史を専攻しようとした大学院生であった私は、日語でクリミア・ハン国について書かれた資料がほとんどなく、イメージのみで語られていることに失望を感じていました。幸いにもTwitterなどでクリミア・ハン国史の話題を振ると、その実像についてそこそこ関心を持ってくれる人がいるようでした。そこで突如思い立ち、1か月ほどの短期間で一気に書き上げた原稿が『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』と題した小史で

    『クリミア・ハン国 歴史・国家・社会』まえがきに代えて|Pençdiraht
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    k-holy 2024/03/19
    『蒼き狼と白き牝鹿』シリーズを嗜んだおっさんには興味深い内容っぽい。
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    k-holy 2023/06/14
    薬師寺元一の乱以前、7月27日から8月6日にかけて、大乗院では「西国御上洛必定」「来月可有御上洛之由」「西国御所可上洛之由」と、義尹上洛の情報を得ていた件。「当国事面々申合子細在之云々、事実歟」とも.
  • 『椿井文書―日本最大級の偽文書』/馬部隆弘インタビュー

    古今東西、偽文書は作られつづけてきました。偽文書と知らずに受け入れたり、あるいは知っているにもかかわらず利用したりしてきました。偽文書はどうやって作られ、広まり、影響を与えてきたのでしょうか。『椿井文書―日最大級の偽文書』を刊行した馬部隆弘さんに、偽文書研究について伺いました。 ――書は「椿井文書」ということばがメインタイトルになっていますが、そもそも椿井文書とはなんでしょうか。 馬部:現在の京都府木津川市山城町椿井を出自とする椿井政隆が偽作した古文書類を椿井文書(つばいもんじょ)と呼んでいます。実際には江戸時代後期に作成されているのですが、中世のものという体裁をとっています。巧みにつくられているため、近畿地方一円に正しい古文書として広まっていました。 ――はじめて「椿井文書」をご覧になったときは、どんな感じでしたか。 馬部:大阪府の枚方市教育委員会に非常勤職員として勤務しているときに

    『椿井文書―日本最大級の偽文書』/馬部隆弘インタビュー
  • INBUDS

    ●●●JAIBSSAT 目次Contents주의사항内容内容トップ(利用条件)TOP (Notes)톱페이지(주의사항)首页首頁|INBUDSについてABOUT개요关于INBUDS關於INBUDS論文PDFリンクPDF LINKS논문PDF링크PDF阅览链接PDF閲覽鏈接|関連サイトSITE LINKS관련사이트关联网站链接相關網站聯結技術情報TECHNICAL기술정보技术情报技術情報|更新情報UPDATES갱신정보更改情报最新消息ダウンロードDOWNLOAD다운로드下载下載 ā   ī   ū   ṛ   ḷ   ṅ   ṭ   ḍ   ṇ   ñ   ś   ṣ   ḥ   ṃā   Ā   á   Á   à   À   ă   Ă   ǎ   Ǎ   â      ä   Ä   ā̆   Ā̆   æ   Æ   ç   Ç   č   Č   ḍ   Ḍ   ē   Ē  

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    k-holy 2019/12/20
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  • 永禄13年(元亀元年・1570)織田信長が上洛を求めた諸大名勢力について - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

    元亀元年(1570)に行われた織田信長の朝倉義景攻めは信長の人生を語る上で外せないイベントの一つである。と言っても、朝倉攻めそのものが画期と言うよりも、この最中に織田信長の同盟者であった浅井長政が信長より離反し、以降織田信長は長期にわたって、いわゆる「信長包囲網」との戦いに突入した、この契機としての位置付けが大きい。さらには、朝倉と浅井の挟み撃ちにされた信長が命からがら逃げだし、木下秀吉が殿を務めたというエピソードはもはや「神話」となっているきらいさえある。 では、なぜ織田信長は朝倉攻めを行ったのか?通説では、織田信長は傀儡将軍足利義昭を利用して、諸大名に上洛を呼びかけた。しかし、義景はこの上洛の質が義昭ではなく信長への臣従にあると考えたため、上洛要請を黙殺した。信長はこれをいい口実として、義景を義昭への反逆者に認定、討伐することにしたというものである。さらには、そもそも足利義昭は傀儡と

    永禄13年(元亀元年・1570)織田信長が上洛を求めた諸大名勢力について - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』
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    k-holy 2019/08/21
    状況分析に色んな気付きがあって良い。赤松贔屓的に欲を言えば赤松宗家と小寺にも言及して欲しいところですが。しかし、木林源五父子って誰wってなりますね。続きにも期待。
  • 室町幕府の外様衆と奉公衆 - 株式会社 同成社 考古学・歴史・特別支援教育図書の出版社

  • 「1565年6月19日付フロイス書簡」に見る永禄の変 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

    さて、先ごろ『フロイス日史』に見る永禄の変への道 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』という記事を製作し、永禄の変への経過について何があったのか、考察を加えた(この記事の前提ともなるので、是非ともお読みいただきたい)。その時は『フロイス日史』を用いたが、『フロイス日史』は編纂史料であり、フロイスが後付けで編集した側面もある(だからこそ、変後の情報操作が含まれているのではないかという推測も行った)。ところが、その後になって『十六・七世紀イエズス会日報告集〈第3期‐第2巻〉』に「1565年6月19日付フロイス書簡」という文献があるのに気付いた。明治6年以前の和暦と西暦では日付がずれるのでわかりにくいが、永禄の変が発生した永禄8年5月19日は西暦では1565年6月17日にあたる。つまり、この書簡は変の2日後に書かれたもので(実際には3日後以降の動静も記されている)、その情

    「1565年6月19日付フロイス書簡」に見る永禄の変 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』
  • ヘンな史料を読む その1 毛利輝元法度案 : にせ茶人の歴史ブログ

  • なぜ織田信長は三好康長(康慶)を重用し続けたのか? - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

    三好康長はどちらかと言えばマイナーな三好一族の中ではそこそこ名前が知られている武将ではないかと思われる。なぜなら、康長は織田信長の重臣となっており、近年は能寺の変の原因として四国説がクローズアップされる中、四国説のキーマンとなる人物だからである。来年放映予定の大河ドラマ『麒麟がくる』でも、主人公が明智光秀であるからには、康長も登場することは間違いなく、ドラマの中での役割やキャストには今から期待している。…ってそういうことを言いたいのではないのだが。 しかし、三好康長は織田信長の家臣としては新参であり、それまでの長きに渡って明確に信長の敵であった。康長を一転して重用するに至った信長の判断は興味深く思われるが、あまり説得力のある説明は聞いたことがない。しかも織田家臣としての康長は目立った戦功を挙げていないようにも見えるが、信長からの重用は信長が死ぬまでいささかも揺るぐことはなかった。これこそ

    なぜ織田信長は三好康長(康慶)を重用し続けたのか? - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』
    k-holy
    k-holy 2019/02/05
    織田政権での三好康長はかつての三人衆政権において篠原長房が果たしていた役割の一端を引き継いだと言えるのかも。康長が長房の躍進と破滅をどう見ていたのかが気になる。
  • 「戦国武将のアピールポイントとは 理想像から共感の対象へ?」知恵泉(NHK Eテレ)の松永久秀特集より - 肝胆ブログ

    NHK Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」という番組で「ヒールの言い分!時代劇定番の大悪人 松永久秀」という特集がされていて、三好長慶・松永久秀の主従愛アピールが半端なくてかんたんしました。 ↓'19/2/5に再放送があるそうです。 www4.nhk.or.jp テレビなのでちょいちょい分かりやすさを最優先した演出や表現になっていたものの、出演者のトークコーナーも含め、総じて面白い内容でしたね。 「愛する主君」「愛する長慶」「長慶の面影を求めて信長に接近」等々、エモーショナル過多な表現に笑いました。 泉下で三好実休さんや三好長逸さんが「誰がNo.2やねん」「三好三人衆かて長慶様を愛してたわ」「なんでいつもいつも久秀だけ」等とお怒りになっているような気がしないでもありません。 (これはこれで三好一門と松永久秀さんの軋轢ぽくて面白いのですが) 信長の野望・大志といい、さいきんの三好家の取り上げ

    「戦国武将のアピールポイントとは 理想像から共感の対象へ?」知恵泉(NHK Eテレ)の松永久秀特集より - 肝胆ブログ
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    k-holy 2019/01/31
    “この人がいちばん好きだったのはこの人に違いないみたいな論争の方が盛んな世の中になったらアバンギャルドでいいですねえ”個人的には将軍義晴の本命が最終的に誰だったのか知りたいです。高国であって欲しい。
  • 三好長逸―中央政権の矜持を抱き続けた「三人衆」の構想者 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』

    三好長逸は『日人名大辞典』によれば、以下のような説明がなされている。 三好長逸 みよし-ながゆき ?-? 戦国時代の武将。 三好之長(ゆきなが)の孫。三好三人衆のひとり。松永久秀と協力し,宗家の三好義継(よしつぐ)を後見した。のち久秀・義継の同盟軍と対立,奈良を中心に交戦をくりかえす。織田信長の畿内制圧で阿波(あわ)(徳島県)にのがれ,しばしば反攻したが,天正(てんしょう)元年(1573)の敗走以後は不明。別名に長縁(ながより)。 三好長逸を数行で説明しようと思ったら、おそらくこれ以上にもこれ以下にもならないだろう。しかし、三好長逸は永禄末年から天正に至るまで日史の主役の一人を演じていた。これを考え合わせると長逸の解説を数行で済ませてしまうこと自体が不当である。にも関わらず、歴史関係の図書でも長逸は名前すら出て来ることがあまりない。そもそも三好氏自体が日史の中で画期を示したのに対して

    三好長逸―中央政権の矜持を抱き続けた「三人衆」の構想者 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER SPACE』
  • 金沢文庫・講座

    k-holy
    k-holy 2018/10/26
    山名蔵のサイトに良さげな資料が。呉座先生、宗全の講演されてたのね。
  • 信長と京都 河内将芳(著/文) - 淡交社 | 版元ドットコム

    紹介 〈信長は、「京都ぎらい」だった?〉 〈京都とは付かず離れず。必要以上に京都と関わりを持とうとしなかった信長の姿〉 織田信長は永禄11年(1568)、足利義昭を奉じて上洛します。これは有名な事柄ですが、その後、信長は京都を拠点に指揮をとっていた訳ではなく、岐阜、あるいは安土に往復し、むしろ京都に滞在していた期間は比較的限られています。しかも、京都に来るたびに、その宿所は点々としていました。書では、『信長公記』など編纂物の史料には極力頼らず、公家の日記などの当時の史料を通して信長の宿所を丁寧に追うことによって、京都という都市と信長との関係性を考察します。必要以上に京都と関わりを持とうとしなかった信長の姿が浮き彫りになってきます。

    信長と京都 河内将芳(著/文) - 淡交社 | 版元ドットコム
  • 東林山法雲寺のホームページ

    山名氏は十四世紀半ばから丹波から石見に至る山陰道に雄飛、但馬・因幡両国を二世紀にわたって確保、室町将軍家重臣の四職家(侍所所司家)の一つとして輝いた。徳川将軍家は山名氏が武門の名家であり、ともに上野新田氏のこうけ後裔という関係もあって、これを高家衆(大名の格)として遇し、乗地には故地の但馬七美郡内を与えた。江戸後期には村岡藩が成立する。 但馬の歴史は、しばらく山名氏とともに歩んだし、近代但馬の発展の基礎は山名氏の治政によって築かれたといえるのである。明徳の乱(一三九一)の六分一殿山名氏清、応仁の乱(一四六七~七七)の赤入道山名宗全はいわゆる「天下分け目」の合戦の大将として史上有名である。 山名氏の起こり 清和源氏の八幡太郎義家の三男の義国は下野足利郡内に土着した。当時、北関東の両毛地方には藤原秀郷の子孫が繁栄していた(嫡流は佐野氏)。義国の長男の義重は渡良瀬(わたらせ)川を渡って上野新田郡

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  • 史料纂集古記録編 第24回配本 北野社家日記2

    在庫あり 史料纂集古記録編 第24回配 北野社家日記2 (しりょうさんしゅうこきろくへん24 きたのしゃけにっき2) 発行:続群書類従完成会 竹内秀雄校訂 続群書類従完成会発行 体6,200円+税 初版発行:1972年 A5判・上製・函入・284頁 ISBN 4-7971-0304-3 C3321 【内容説明】『史料纂集』は、史学・文学をはじめ、日文化研究上必須のものでありながら、今日まで未刊に終っていた史料を中核とし、さらに既刊のものでも、現段階において全面的に改訂を要することの明らかなそれを加えて、学界最高の水準で公刊するもの、『大日古記録』と相並び相補う形で、各時代未刊重要史料の集成の実現をはかるものであります。 北野天満宮の祠官松梅院歴代の日次記。宝徳元年(一四四九)から寛永四年(一六二七)に及ぶ。当時の社会・政治の動向は勿論、北野天満宮の年中行事、法制、社領の推移、諸神人

    史料纂集古記録編 第24回配本 北野社家日記2
  • UTokyo BiblioPlaza

    書は、織田信長の権力がいかなる仕組みを通じて発揮され、そこにどんな人びとが関わったのか、足利義昭に近仕した武家・公家の動向や、寺社・朝廷に関する史料を検討して明らかにしようとした論文を集めた論文集です。 そもそもわたしは織田信長を研究しようと志したわけではありませんでした。研究を出発させるにあたり、そのようなことを考えたことすらありませんでした。 ではなぜ、このような信長に関する論文集を出すに至ったのか。サイトの別の (『大日史料』第十編之二十九) のところでも述べたように、仕事として、信長の時代の史料集を編纂することになったからです。 史料集の編纂は、それまで積み重ねられてきた多くの研究に学びながら進められています。その意味では、先行研究を土台にして問題点を見つけ、自分なりの切り口で対象について研究調査をおこなう個人研究のやり方と変わりません。ひとつひとつのできごとについて、それ

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    k-holy
    k-holy 2018/08/17
    "史料集編纂の作業に没頭することにより、そこから浮かんできた信長の姿を提示する。それしかないでしょう。浮かんできた像が、これまで自分が考えてきたものと違ったならば仕方ない。謙虚に修正してゆくだけです。"
  • 史学研究会|『史林』バックナンバーのリポジトリ掲載に関するお知らせとお願い

    〒606-8501 京都市左京区吉田町 京都大学大学院文学研究科内 TEL & FAX:075-753-2787 e-mail:SHR@bun.kyoto-u.ac.jp 史学研究会(以下、「当会」)では、昨今の学術論文のデータベース化やインターネット上での公開の流れを受けて、当会が発行する『史林』のバックナンバーを電子リポジトリに掲載してインターネット上で閲覧できるようにする可能性について検討して参りました。 去る2017年11月2日に開催された理事会・評議員会および総会において、① 『史林』のバックナンバーを電子リポジトリに掲載すること、 ②掲載する電子リポジトリについては2018年6月に開催予定の理事会・評議員会で決定すること、が承認されました。 『史林』バックナンバーの電子リポジトリへの掲載を進めるためには、『史林』に掲載された記事(論説、研究ノート、研究動向、書評、紹介などを含

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    k-holy 2018/08/09
    おっおっ
  • 戦国期細川権力の研究 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

    序章 問題の所在と書の構成/細川権力の基構造と高国期の変容(奉行人奉書にみる細川京兆家の政治姿勢―勝元期から政元期にかけてを中心に/補論一 細川高国の家督継承と奉行人/細川高国の近習とその構成―「十念寺念仏講衆」の紹介と分析/細川高国の近習と内衆の再編/補論二 上山城守護代の内堀東雲軒/摂津守護代薬師寺氏の寄子編成)/澄元・晴元派の興隆(細川澄元陣営の再編と上洛戦/補論一 桂川合戦前夜の細川晴元方による京都包囲網/「堺公方」期の京都支配と松井宗信/「堺公方」期の京都支配と柳賢治/三好元長の下山城郡代/畠山家における奉書の展開と木沢家の出自/木沢長政の政治的立場と軍事編成/補論二 木沢長政の墓と遺族の動向/補論三 青年期の細川晴元/細川晴元の取次と内衆の対立構造/細川晴元に対する交渉と取次/補論四 足利義晴派対足利義維派のその後)以下細目略/高国派残党の蜂起/終章 戦国期畿内政治史と細

    戦国期細川権力の研究 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社
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    k-holy 2018/07/27
    馬部隆弘先生の論文集、必読
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    k-holy 2018/05/31
    「寛永年間に、甲立の五龍山より三丘に勧請したもので、明治初年まで櫛ケ浜の修験道快照院の社坊でした」山口県周南市三丘(みつお)にある宍戸司箭社。毛利一門筆頭の宍戸家は萩→防府右田→寛永2年に三丘領主に。
  • 安芸の夜長の暇語り 毛利家文書289号「郡山合戦報告書の注進について」

    読んだや安芸の歴史など気の向くままに書き綴るサイト。 今のところ中世、毛利元就とその周辺の国人達が主。 四国を考える前にちょいと気になるものを見つけたので。 毛利家文書 書き下し文 「去る2月14日御状、委細拝見申し候 尼子陣退散の由御注進よりて則披露申し候 それにつき、毛利右馬頭方働き比類無き由 それ隠れ無き候。木左かたへ懇ろに注進候 其趣披露仕り候の所、御書成られ候 長政かた、巨細申されるべく はたまた貴所今度御忠節比類無し旨、まずもって珍重候 この表事も、赤松殿仰せ合われ、近日其働き有るべく候 大内殿よりも、御懇使僧以て御申す儀に候 則御返事申され候、次爰元に相之御用の儀承る 疎意あるべからず候、猶委曲御同名甲斐守方申されるべく候 巨細あたわず候、恐々謹言 卯月21日   宍戸安芸守殿 御返報」 私訳 「2月14日の手紙ですが、つぶさに拝見しました。 尼子方が退散した報告をすぐに披