私は分析哲学を専門としているが、そうした立場からつねづね《分析哲学をやっているひとはもっとマルクスとエンゲルスの『資本論』に関心をもってもよいのではないか》と感じる。なぜなら、一方で現状において《分析哲学者の多くは『資本論』のことを知らない》と言わざるをえないが、他方で《この作品は分析哲学者の好む仕方で読むことができる》とも言えるからだ。本ノートは、分析哲学を好む性質のひとの心内に、『資本論』への関心を喚起することを目指す。 議論の出発点としてひとつのパズルを考察しよう。それは「交換をめぐるパズル」と呼ばれうるものだ。パズルの設定は以下。 物々交換を行なうマーケットがあるとする。そこでは例えば、山のひとが野菜を出品し、海のひとが魚を出品する。より具体的には、Xは一定量のニンジンを提示し、Yは一定量のイワシを提示し、双方が合意して交換が成立する、などが行なわれる。さて――ここで生じうる問いだ
「擬人化」して言えば、ChatGPTは文章を書く。ただし、いまのところ大半のひとは次のように考える。ChatGPTは、少なくとも重要な意味で、決して人間と同じような仕方で「文章を書くこと」ができない、と。ではそれはどういう意味か。じつにChatGPTは〈自分の書いたことに責任を負う〉という仕方では文章を書けない。じっさい、ChatGPTが私たちにとって邪悪と感じられる文章を生成したとしても、〈そのかどでChatGPTを責める〉というのはナンセンスである。「いや、自分は責める」というひとがいるとすれば、そのひとは自分で何を言っているか分かっていない。 以下、ChatGPTについて、感じることを徒然なるままに書く。 ひとつ。これは便利である。いろいろ使い道がある。 ふたつ。新しい技術が生まれると、ひとびとの文学的センスが刺激される。その結果、「この技術は仕事を奪う」などと言われたりする。とはい
あんなことしなければよかった――と悔やむことがある。例えば告白したが受け入れられなかった。そして《告白しなかったらこんなにギクシャクした関係にならなかったのに》と感じる。これは「後悔」と呼ばれる感情だ。これについてはいろいろと論じる価値があるが、以下では、全体として〈後悔の感情をしずめる方法〉について話したい。 《いかにして後悔の念をしずめるか》というのは宿命論者にとって十八番の問いである。どういうことか。 じつに、宿命論に従うと、どんな行為についても後悔の必要はない。なぜなら――これが宿命論からの直接的な帰結だが――その行為は起こるべくして起こったからだ。宿命論は《いかなる出来事も必然的であり不可避だ》と言う。さらには幾人かの宿命論者によれば、一切のものは互いに必然的に結び合っており、あの行為なしに決していまの自分はありえない。すべては存在の全体性のうちでしかるべき位置を占め、ひとつのピ
高齢化の問題を解決する唯一の方法は高齢者の集団自決だ――と(比喩ではなく)文字通り主張するひとがいると仮定しよう。本ノートでは、そのように主張するひとが見逃しがちな事柄を指摘したい。 ただし本論に入る前に注意点がある。本ノートを書こうと思ったきっかけの一部は昨日あたりからのツイッターのトレンドだ。とはいえ、細かな議論をすっとばして言うと、本ノートの議論は成田悠輔本人には関わらない。なぜなら、そこを関わらせるためには彼の発言の意図を明確化せねばならないが、それについてはよく分からないところのほうが多いからである。それゆえ本ノートの議論は、《誰がどうだ》ではなく、むしろ《どの主張にどんな問題があるのか》という話題に焦点を絞る。 さて冒頭で述べた仮定だが、「高齢化にまつわる問題を解決する唯一の方法は高齢者の集団自決だ」と文字通り主張するひとがいる、としよう。はじめに押さえるべきは、「高齢者の集団
量子力学はいわゆる古典力学とは本質的に異なる世界像を提示するので、自由意志をめぐる問題を考察するさいにはそれなりに知っておくべきものだと言える。そして優先度は高い。じっさい自由意志の哲学に取り組もうとするさいには、例えば〈決定論的オートマトン〉と〈非決定論的オートマトン〉のパワーの違い、チューリングマシンの仕組み、無意識にかんするフロイトの理論などの、純粋哲学の外部の知見をいろいろと知っておいたほうがいいのだが、量子力学はそうしたリストの上位に入る。それゆえ私は、例えば《停止性問題を解決するプログラム[*]は存在しえない》という命題の証明を見た後などに、「では河岸を変えて量子力学のモデルを構築できるようになることを目指しまずはヒルベルト空間のことや自己共役演算子のことを勉強しよう!」などと提案したくなる――だいたい「波束の収縮」のモデルをつくることができるところまで進めば〈量子力学が自由意
《いかにして論理的な文章を書くのか》を非体系的に説明したい。例えば次のような型をもった文章は「論理的」と言える。 以下の文章は A と主張する。この主張はより厳密には B ということを意味する。それゆえこの文章は、C と述べるものではなく、むしろ D を指摘する。 このように〈理屈の骨格が明示化された文章〉が「論理的」と呼ばれる。そして論理的な書き手は自分の文章の論理構造が適切に表現されているかにこだわる。この点へのこだわりのないひとの文章はほぼ確実に、非論理的(正確には没論理的)なものになる。 先のサンプルに即して《論理的な書き手が何にこだわるか》をより具体的に説明すれば以下。問題の事例において書き手は、自分の主張(A)が自分の意図せぬ内容(C)と誤解されうる(本当の言いたいのは D だが)、という可能性を気にしている。こうした誤解を前もって防ぐには A の意味を明確化するのがよい――か
来る9月27日に安倍晋三元首相の「国葬」あるいは「国葬儀」――このふたつの語の関係を政府はいまのところきちんと説明していないが――が行なわれる、とされており、しばしば「国葬に賛成か、反対か」が問われているが、この問いを考える以前に考えたほうがよいと言える問いがある。それは、そもそもここで言われている「国葬」あるいは「国葬儀」とは何か、という問いだ。 この問いへ政府は少なくとも現時点で明確に答えていない。とりわけ、「国葬」あるいは「国葬儀」における「国」に国民や国会が含まれるか否か、がはっきりさせられていない。それゆえ、私たちはまだ、政府の言っている「国葬」あるいは「国葬儀」が何であるかを知らない。かくして、「国葬」あるいは「国葬儀」については〈賛成/反対を議論する以前の不明瞭さ〉がある、と言える。 ――ちなみに《政府が「国」に国民や国会が含まれるか否かをはっきりさせていない》という事実は、
2022年3月27日(日)の「道徳の未来のために――モラルハッカソン2022」という集まりで、ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳』(晶文社、2021年)が取り上げられるのだが、私はいわゆる「特定質問者」の役目を担うことになった。以下そのために私が書いた文章をアップロードしておく(先ほど運営へ送ったので遅かれ早かれクリッツァーさんにも届くはずだ)。 >>> 以下ではベンジャミン・クリッツァーの『21世紀の道徳』(晶文社、2021年)について私が「いいな」と思った第11章を論じたい。この章の題名は「快楽だけでは幸福にたどりつけない理由」であり、そこでは快楽と幸福の一筋縄ではいかない関係が論じられる。以下、その議論を私なりにまとめたうえで、コメントを付す。 クリッツァーの叙述を追うさいに気にせざるをえない事柄は《どの視点から論じるか》だ。私は数年前に幸福にかんする本を書いており、このトピ
>>>>> 現在の日本では、総じて、人件費はもっと減らすことができる。すなわち、いま以上に人件費を減らしても、労働者は労働を続けるであろうし、生産性もさしあたり維持される。じっさい、人件費が高くつく正規職員を減らしたとしても、安価な非常勤労働者を雇って同様の仕事をさせればよい。人件費を減らすことによって無駄を省くこと(そして純利益を増大させること)――これこそが経営者のすべきことだ。 以上のような発想で経済政策を打ち出す政党の代表は「大阪維新の会」および「日本維新の会」(本ノートでは両方をひっくるめて「維新」と呼ぶ)である。この政党がそれなりの発言力を有するのはいま述べた発想に一定の真実が含まれるからだ。とはいえこの発想にもとづく経済政策はいずれ無視できない害悪を引き起こす。以下、前段落の発想の「正しい」部分と、それにもとづく政策の問題点を順に指摘する。 問題の発想に含まれる一定の真実とは
一切はたんなる出来事であって、ひとが何かをするというのは幻想なのか――これが自由意志の根本問題である。なぜこれが「根本問題」と呼ばれうるのかを手短に説明すれば以下。 自由意志をめぐる問題はこれまで決定論との関係で定式化されることが多かった。決定論が正しければ、AがBを殺すことはAが生まれる前に決まっていたことになる。それゆえ、決定論が正しければ、Aを殺人の咎で責めたり罰したりすることは不条理になる。同様の理屈が任意の人間と任意の犯罪について成り立つ。はたして決定論と非難や刑罰の正当性とは両立するのか。――これが自由意志をめぐる問題の従来の典型的な定式化のひとつである(ちなみにこの定式化から自由意志の哲学で問題になる「自由意志」のタイプが分かる――それは〈責めや罰の正当性の根拠としての自由意志〉だ)。 だがこの定式化は問題の核心に迫らない。なぜそう言えるかと言うと、非決定論が正しい場合にも似
これは非難の哲学の観点から言って興味深い事例である。まずその興味深さを説明しよう。 ポイントのひとつは、「責めるな」という文がプラグマティックなレベルでひとを責めるひとを責める働きをする、というところである。こうなると、この文の発話者は自らも行なっているタイプの行為に関して他者を責めることになる。これはいわゆる「偽善(hypocrisy)」であって、不適切な非難の仕方だと言える。 同様の議論は意外なところまで拡張できる。この点も簡単に説明したい。 ごくたまに《ひとを非難することは不正な行ないだ》などと主張されることがあるが、ここで「不正」とは何だろうか。仮に不正な行為が〈それを実行すれば非難されるところの行ない〉であるならば、先の命題――すなわち《ひとを非難することは不正な行ないだ》という命題――の発話もプラグマティックなレベルで、ひとを非難するひとを非難する意味合いをもつと解釈されうる。
自由意志はなぜ哲学の問題となるのか――についての基本的な理解を確認しておくことは何かしら役立つかもしれない。本ノートはそれについて手短に説明する。 「自由意志は存在するのか」への答えはしばしば次のような非前進的なものにとどまる。すなわち、答えは「自由意志」という語の定義次第だ、と。この種の回答を避けるために哲学者は〈問題をより実質的なものにする〉という工夫を行なってきた。具体的には責任の必要条件としての自由意志を考察する。この場合、「自由意志は存在するのか」を問うことは「ひとは自分の行動に責任を負うか」を問うことを含む。責任の有無をめぐる問いのために自由意志の有無を問う、ということだ。 とはいえ先に〈自由意志〉について問われたのと同じことが〈責任〉についても問われうるだろう――なぜ責任は哲学の問題となるのか。議論が「責任」という語の定義問題に陥らないために、この点を明確化せねばならない。じ
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