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2010年4月26日のブックマーク (2件)

  • ビタミン信仰 - とラねこ日誌

    ■不足から過剰へ 2010年現在、日に暮らしている人々の多くは、自分が必要とする栄養補給にはどのような事をどの程度べればよいのか教育等がなされており、望むのならば必要十分量の栄養素を確保できる状態にあるといえるのではないでしょうか。 栄養素欠乏により引き起こされる欠乏症は恐ろしいモノだけど、欠乏症を起こすほどの栄養不足は普通に生活していれば殆ど起こらない状況にまでなっています。これはとても素晴らしい事だと思います。 かくして、栄養摂取の重要性を訴える公衆栄養施策から、過剰摂取の害を説く公衆栄養施策に転換することとなりました。 そうした流れと、過剰摂取が引き起こすとされる生活習慣病予防と美容的観点から強迫観念を煽る所謂ダイエットの流行などにより、べ過ぎに対する罪悪感を煽られるようになりました。それと商業的な面などもあわさって主に女性をエネルギー過剰摂取忌避へと向かわせたのだとおもいま

    ビタミン信仰 - とラねこ日誌
  • 《語り手の視点》の観点から夏目漱石を読む - 蟹亭奇譚

    スランプを脱する薬が欲しい - 備忘録の集積 id:keiseiryoku さんのエントリを読んで、小説に書かれている視点の変化について興味をもったので、一つ記事を書いてみることにしたい。(ただし、創作上の助言などのつもりではないので、あてにしないでいただきたい。) で、またしても夏目漱石である。 漱石の初期の主要な小説、『吾輩はである』、『坊っちゃん』、『草枕』 はいずれも 《吾輩》、《おれ》、《余》 という一人称で書かれている。主人公自身が語り手であって、『吾輩』 のように、主人公が死ぬとストーリーがそこで終わってしまうケースもある。つまり、主人公以外の視点が入りこむことが全くないのである。 これが中期の小説、『三四郎』、『それから』、『門』 あたりになるとだいぶ変わってくる。三作とも三人称で書かれている作品だが、これらはどのような視点で描かれているのだろうか。 三四郎はぼんやりして

    《語り手の視点》の観点から夏目漱石を読む - 蟹亭奇譚