タグ

人生と社会に関するkiyokoichiのブックマーク (5)

  • 【小泉悠】「いいところなし」の少年に、「細部から全体像を描く」を教えてくれた人:朝日新聞GLOBE+

    手元に置いた携帯電話がひっきりなしに鳴っている。ほとんどが取材依頼だという。2月24日のロシアによるウクライナ侵攻後、時の人になった。 引っ張りだこになるのには訳がある。相手に目線を合わせつつ、複雑な事象をわかりやすく説明する力。ロシアにもウクライナにもくみせず、膨大な軍事情報をつないで全体像を描き出す分析力。 「彼は言葉の力で一種の社会現象を起こしている」。そう話すのは、2019年、小泉さんを東大先端科学技術研究センター(先端研)に誘った先端研教授の池内恵さんだ。 「彼が話すと議論が整理されていくんです。いろんな人が投げた球を一つずつ拾い、それに答えつつまとめるという、非常に高度なことをやっている」。だが、人気の理由は、明晰さだけではなさそうだ。ときおり垣間見せるユーモアや、硬軟とりまぜた引き出しの多さ。自ら「軍事オタク」ぶりを見せて、楽しんでいるふしもある。 東京大学先端科学技術研究セ

    【小泉悠】「いいところなし」の少年に、「細部から全体像を描く」を教えてくれた人:朝日新聞GLOBE+
    kiyokoichi
    kiyokoichi 2022/08/18
    続編に期待
  • 【追記あり】技能実習生を雇用している父に質問してみたら、我が家の謎がすこし解けた - 本トのこと。

    私の実家は会社を経営をしており、数年前から外国人実習生を雇い入れている。 主にベトナム人で、一緒に会社を切り盛りしている母は寮*1の管理や、時にはLINEで日語についての質問に答えたりなど、親身に世話をしているようだ。 日語勉強中のベトナム人からの「たのしいとうれしいのちがいは?」「招待すると誘うと呼ぶのちがいは?」の質問にLINEで答えることをしたけど、(非ネイティブに伝わるようにするのも含め)意外と説明がむずかしい — ミネコ (@meymao) March 19, 2016 私はテレビを持っておらず、普段ニュースもさほど見ないので社会問題に明るくないのだけど、外国人実習生に関する問題が目に入るたびに、その現状のひどさや、それに対する世論の反応なども含め、この近くて遠い実習生問題について気になっていた。 「うちの実家も外国人実習生を雇い入れているが、報道されるようなひどい環境で働か

    【追記あり】技能実習生を雇用している父に質問してみたら、我が家の謎がすこし解けた - 本トのこと。
    kiyokoichi
    kiyokoichi 2019/01/07
    あまり聞くことなない実情
  • 風俗からこども食堂へ 貧困の連鎖を断ち切ろうと苦闘する夫婦 宮崎・プレミアム親子食堂(湯浅誠) - エキスパート - Yahoo!ニュース

    風俗街で出会うマキ(34歳)がユウジ(45歳)に出会ったのは21歳。2人が生まれ育った宮崎市内の風俗街でだった。 マキは働いていた飲み屋で知り合ったパチンコ依存症の夫と別れたところ。ユウジは日中ビルメンテナンスの会社を経営しながら、夜はデリヘル業(デリバリーヘルスという業種の風俗店)に携わっていた。ユウジもこの時点でバツ2だった。 2人は結婚。デリヘルやSM店経営の後、業のビルメン経営の傍らで、一般社団法人「日プレミアム能力開発協会」という団体を立ち上げ、その事業の一環で、2015年1月に「プレミアム親子堂」を立ち上げる。これが、宮崎県内のこども堂の先駆けとなった。 風俗業の経営から、法人立ち上げを経て、こども堂へ。2人の軌跡はいかにもアヤシゲで、眉をひそめる人もいるかもしれない。 しかし、この2人のストーリーを、貧困の中で育った者たちが貧困の連鎖を断ち切ろうとしてきた苦闘のスト

    風俗からこども食堂へ 貧困の連鎖を断ち切ろうと苦闘する夫婦 宮崎・プレミアム親子食堂(湯浅誠) - エキスパート - Yahoo!ニュース
    kiyokoichi
    kiyokoichi 2017/02/02
    当事者の話、活動はとても参考になる
  • 障害者の世界は、「豊か」だ。

    しかし、蓋を開けてみたら、あっという間に小池ゆりこ氏の当確。今、「選挙って、なんだ!?」という問いが、「人生って、なんだ!?」くらいの重さで私にまとわりついている。が、ここで腐っていてもしょうがない。まずはこれから小池都政を徹底的に注視していくしかない。

    障害者の世界は、「豊か」だ。
    kiyokoichi
    kiyokoichi 2016/08/05
    良記事。障害者コミュニティの紹介が印象的。
  • 葬式について - kom’s log

    一人の人間が死んだことを確認するためには儀式的な社会行為が必要であると知ったのはたぶんとても若い山仲間の友人が死んだときである。雪崩の中で窒息死した後輩の葬式。それまでは、葬式、あー、キッチュ、だった。確かに。くだらねえ、葬式。おれはあいつのために川にに飛び込む、葬式なんてしゃらくせえ。葬式がキッチュ、というのは実にあたりまえ、というか理の当然である。でもやらなきゃいけない。それが私が後輩の死から学んだことだった。Condolence。何度もいわれた。彼女のことを知らない人にも。でもそれでいいんだと思う。それは社会的合意なのである。一人の人間が死ぬ、というのは個人が死ぬのではなく社会のなかに穴がぽこっと開くことである。死はその当事者には確認できない。したがって死はどうしても社会的にならざるを得ない。 極端なことをいえば葬式によって擬似的に我々はその人を社会的に殺すのである。そのために葬式が

    葬式について - kom’s log
    kiyokoichi
    kiyokoichi 2009/05/09
    "葬式によって擬似的に我々はその人を社会的に殺すのである"
  • 1