藤村シシン 新刊『秘密の古代ギリシャ』 @s_i_s_i_n 古代ギリシャ映画が流行してるし、そろそろ三平方の定理のピタゴラス先生が三角定規の鋭角で悪い奴をバッタバッタとなぎ倒す、『ピタゴラス・ザ・トライアングルズ』が観たい。決め台詞はもちろん「3つの6さえあれば私は何度でも蘇るさ」「太陽に向かって小便する奴、松の枝で尻を拭く奴は死ね」で
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藤村シシン 新刊『秘密の古代ギリシャ』 @s_i_s_i_n 古代ギリシャ映画が流行してるし、そろそろ三平方の定理のピタゴラス先生が三角定規の鋭角で悪い奴をバッタバッタとなぎ倒す、『ピタゴラス・ザ・トライアングルズ』が観たい。決め台詞はもちろん「3つの6さえあれば私は何度でも蘇るさ」「太陽に向かって小便する奴、松の枝で尻を拭く奴は死ね」で
私は哲学アレルギーに悩んでいる。特に「科学哲学」と聞くと、ただちに血圧が20程度は上昇する。政府は花粉症のみならず哲学アレルギー対策にも本格的に乗り出すべきだ。でもその前に、少しでも症状を軽くする免疫療法として本書を試してみた。 裏カバーに、「熊もどき」がストローで何やら飲んでいる写真が掲載されている。何の情報も与えずにこんな写真を掲載する意味は一体何か。機能や目的が表象されているとも思えない。いくら自由が保証された社会であるとはいえ、最低限の道徳があるはずではなかろうか。 というわけで、怪しいことを書いていたらゼッタイ許さんケンネ、と興奮しつつ本を開くと、しょっぱなから「あんたいつの間に『哲学入門』なんて偉そうな本を書く身分になったのよ」という奥様の一言が引用されている。やっぱり怪しい。 しかしよく読むと、平易な語り口と親父(おやじ)ギャグにもかかわらず、本格派哲学書と呼べる内容であるこ
独デュイスブルク(Duisburg)の歴史博物館に展示されたイマヌエル・カント(Immanuel Kant)の肖像画(2004年2月11日撮影)。(c)AFP 【9月17日 AFP】ドイツの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant)の功績について、ロシア人2人が語り合っていたところ、議論が白熱しすぎたあまり、一方の男性が拳銃で相手の男性の頭を撃つという事件が起きた。地元警察が16日、ウェブ上で発表した。 警察によれば、この事件は15日の深夜、ロシア南部のロストフオンドン(Rostov-on-Don)で、露店で酒を買おうと列に並んでいた初対面の男性2人が会話を始めたことがきっかけとなった。この2人が18世紀の偉大な哲学者カントの著作と功績をめぐって口論を始め、どちらが彼のより熱烈な支持者であるのかを決めようとしたという。 かつてケーニヒスベルク(Koenigsberg)と呼ばれて
承前*1 道徳を問いなおす リベラリズムと教育のゆくえ (ちくま新書) 作者: 河野哲也出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2011/03/09メディア: 新書 クリック: 12回この商品を含むブログ (11件) を見る 先日、河野哲也*2『道徳を問いなおす――リベラリズムと教育のゆくえ』を読了した。 取り敢えず目次をメモ; 序章 これまでの「道徳」 第一章 道徳を語る準備――リベラリズムと教育 第二章 共に生きるための「道徳」 第三章 他者を知り、共感するために――エコロジカル・ケイパビリティ・アプローチ 第四章 道徳には哲学が効く あとがき 参考文献 著者の主張を一言で表現すれば、「現代社会における道徳教育とは、リベラルな民主主義社会を維持し、発展させる働きを担う主権者を育成することに他ならない」(p.13)、「道徳教育とは、民主主義教育と同じものなのである」(pp.13-14)とい
ユダヤ教ならびにその影響を受けた宗教(キリスト教、イスラム教)を啓典宗教と言います。啓典宗教の特徴は、神が唯一絶対のものであると規定しているところにあります。唯一というのは他には神はいない、ということですから、分かりやすいのですが、絶対である、ということはどういうことなのか、日本人は理解していませんね。絶対と言うのはまず第一に宇宙論的存在証明における価値や原因の起点と言う意味を持ちます。政府に様々な命令権限があるのは、国民の支持があるからですね。現代では国民に価値の起点があるわけです。これが例えば徳川幕府では、将軍に権威があるのは天皇によって任命されているからであり、天皇に権威があるのは神によって国主たることを命じられているから、という理屈になります。つまりある権力組織や権力者は、自分自身では自分の権威を正当化できないのです。権威を正当化できる権威者は必ず外部にいます。そしてその外部の権威
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生命起源論の科学哲学―― 創発か、還元的説明か 作者: クリストフ・マラテール,佐藤直樹出版社/メーカー: みすず書房発売日: 2013/01/19メディア: 単行本購入: 7人 クリック: 1,476回この商品を含むブログ (7件) を見る 生命の起源をめぐる各種議論についての本。ここしばらく、科学哲学というのは基本的にアホダラ経であって読む価値がない、という思いをだんだん強くしていたんだけれど、この本で多少は見直した。 生命ってどうやってできたの、というのは基本的に生物学の根底にある大きな謎の一つ。で、本書はまず、生命って何、という議論を紹介し、その中で最近出てきた創発的説明について分析を加える。で、最終的には、創発的な説明って実は説明になってないんじゃないか、という指摘をして、いずれ還元的な説明が行われるだろう、と述べる。 おっしゃる通りだと思う。創発的現象、といっただけでなんか説明
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アダム・スミス―『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書) 作者: 堂目卓生出版社/メーカー: 中央公論新社発売日: 2008/03/01メディア: 新書購入: 8人 クリック: 169回この商品を含むブログ (114件) を見る 本書において著者は、アダム・スミスの幸福観に関し、つぎのように述べる。まず、スミスにとっての幸福とは、心が平静なことであるとし、この点において、ストア哲学の幸福観の影響を認める。しかし、幸福と財産との関係については異なる見方がとられ、スミスにとって、幸福であるためには、「健康で、負債がなく、良心にやましいことがない」こと、特に、その社会における「最低水準の富」を保持していることが必要であり、「最低水準の富」がないと、人間は悲惨な状態に陥るとする。 一方、ストア哲学では、賢人とは、あらゆる状態において精神の不動を保つ人である。この点はスミスの見方とは異なってお
「読書は世界の敵になるための最初のレッスンだ」http://d.hatena.ne.jp/bluebarbe/20110819/1313767215 http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20110813/1313239682に触発されたエントリー*1。 曰く、 私も読書は反社会的な行為だと思う。 読書するとは目前の人間を社会を、そして世界を無視することに等しい。 本に耽溺するとは、恋人と観覧車で二人きりなのにメールを打つようなものだ。 故にノンフィクションよりフィクションが罪が重く、フィクションの中でも最も罪が重いのは、嘘で世界を演算し、あり得るorあり得たかもしれない世界を演算するSFであると考える。 誤解のないように言うが、読書(映画、ゲーム、夢、妄想etc)は現実逃避だから反社会的なのではない。現実そのものだから反社会的なのだ。 「人間」も「社会」も「世界」
自然だから良い、正しい(あるいは不自然だから悪い、間違っている)という主張については「自然に訴える論証」をご覧ください。 この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2022年1月) 自然主義的誤謬(しぜんしゅぎてきごびゅう、英語: Naturalistic fallacy)とは、メタ倫理学において、善を快いとか好ましいといった自然的性質で還元的に説明することは誤りであるという主張である[1]。この用語は、イギリスの哲学者G・E・ムーアが1903年に出版した著書『倫理学原理』の中で初めて用いられた[1]。 概要[編集] 『倫理学原理』のタイトルページ 20世紀初頭に G. E. ムーア が著書『倫理学原理』の中でこの言葉を導入した。 ムーアは、哲学的議論は
オーギュスト・コント (Comte, Augste, 1798-1857) は1798年に南フランスのモンペリエで生まれた。父は公務員だから中産階級の出身。子供のころから秀才で1814年(コント16歳)でエコール・ポリテクニク*という,ナポレオンが創設した超エリート校に入学した。ところが,1816年に,コントは退学処分になる。コントが入学したのはナポレオンが失脚し,第一次王政復古があった年である。その翌年に,ナポレオンがエルバ島から復帰,ルイ 18 世は再び亡命。けれども,ナポレオンはワーテルローの戦いに破れ,第二次王政復古となる。このとき,コントが第二次王政復古に反対する学生運動に加わったことが退学の理由とされる**。 * École polytechnique(理工科大学校):ナポレオンが軍事技師を養成するためにつくった学校。今日でも国防省に属し,学生は国から給費を受け,制服を支給され
さしあたり更新おやすみ中です。 戸田山和久さんはいわゆる分析系――戸田山さんや飯田隆さんにいわせると「分析系」とひとくくりにすることが今や期限切れということになるのでしょうが――の哲学者で、単著ではかなり一般向けの本を書いていて、マニアックなトピックは雑誌やアンソロジーで扱っているという印象です。『科学哲学の冒険』などで戸田山さんは<分析系>の哲学者としては有名なほうだと思うのですが、論文の多くは一般読者の目にとまりにくいところで書かれてたりするので、その全貌がちょっとわかりづらいことになっていると思います。せっかくファンになっても単著で止まってしまうのはもったいないと思い、そこからディープな戸田山ワールドへ進んでいけるようこれまでの仕事に少し光を当てられたら、と思いました。 容易に入手できるもので哲学関係のものはほとんど読んだと思いますが、もちろん見逃しがある可能性はあります。なお、読ん
ハンナ・アレント的、あるいは藤田省三的な意味での「全体主義」概念を軸として、自分のこれまでの規範理論的な作業を振り返ると、以下のようにまとめられる。 『リベラリズムの存在証明』においては、非常に強い意味でカント的な――「独我論者同士の相互承認と連帯」としてのリベラリズムは、アレント的な意味での全体主義に抗しうるか、と問いかけたうえで、否定的な解答を出さざるを得なかった。すなわち、いったん成立した全体主義体制を、その内側から突き崩すような力を、リベラリズムという社会編成原理は持ちえない、と。 それに対して約10年後の『「公共性」論』では、問いのレベルと方向がずらされた。相変わらず、アレント的な意味での全体主義に対して、リベラリズムは実践の原理としては無力である。しかしここでは、まさにそのことをもってして、全体主義は否定されるべき原理であることが明確とされる。逆に言えば『存在証明』では、「全体
60年安保の全学連と68年の全共闘 ――60年安保闘争の全学連に関する記述は好意的ですね。 ★まあ好意的といってもいいでしょう。ただし、彼らが賢かったとは思いません。冷たい言い方に聞こえるかもしれませんが、全共闘運動や60年代の新左翼も含めて、20歳かそこらの人間が上の年代と縁を切って運動をやっても、思想的ないし政治的に賢いものが出てくる確率は少ないと思う。 ただ60年安保闘争の全国民的な――あえてこういう言い方をしますが――盛り上がりをもったときに、全学連主流派はそれなりの役割を果たした。つまり若者の純粋さというか、直情径行な直接行動が、一種の起爆剤の効果をもった。 国会突入を繰り返す全学連主流派のデモを、回りの大人たちは半分あきれて見ていたようですけれど、その純粋さや真摯さに刺激されて、運動が広がっていったわけです。それはいわば、枯葉がたくさんあるところにマッチをすったようなものです。
(平成14年11月8日に行われた愛知県立大学公開講座「『国際文化』ーグローバル化と民族アイデンティティー」第1回の要約です。)
承前*1 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51675758.html 主体性って流行りなのか。池田信夫*2も最近主体性について書いている。尤も主体性という言葉は使ってはおらず、「近代的自我」を論ずるという仕方ではあるけど。『「近代の超克」と京都学派』という本の書評というかたちを取っているのだが、池田の文章は(少なくとも直接的には)西田幾多郎や田辺元にはあまり関係がなさそうだ。それはともかくとして、関連箇所を切り取っておく; (前略)ケータイで膨大な情報や体験を共有する若者は、仮想的に一つの身体で行動している。ケータイは彼らにとって、義手や義足のように身体の一部になっている。近代的自我を定義する身体の自己同一性は、もはや自明ではない。脳科学も明らかにしたように、もともと<私>は1000億のニューロンを同期させるための幻想にすぎない。 近代的自我
蠅(はえ)を叩(たた)きつぶしたところで、蠅の「物そのもの」は死にはしない。単に蠅の現象をつぶしたばかりだ。―― 旅への誘(いざな)いが、次第に私の空想(ロマン)から消えて行った。昔はただそれの表象、汽車や、汽船や、見知らぬ他国の町々やを、イメージするだけでも心が躍(おど)った。しかるに過去の経験は、旅が単なる「同一空間における同一事物の移動」にすぎないことを教えてくれた。何処(どこ)へ行って見ても、同じような人間ばかり住んでおり、同じような村や町やで、同じような単調な生活を繰り返している。田舎(いなか)のどこの小さな町でも、商人は店先で算盤(そろばん)を弾(はじ)きながら、終日白っぽい往来を見て暮しているし、官吏は役所の中で煙草(タバコ)を吸い、昼飯の菜のことなど考えながら、来る日も来る日も同じように、味気ない単調な日を暮しながら、次第に年老いて行く人生を眺(なが)めている。旅への誘いは
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