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ブックマーク / www.highriskrevolution.com (21)

  • 書籍「ゲームの歴史」について(12/終) | Colorful Pieces of Game

    このテキストは岩崎夏海・稲田豊史両氏による、先日絶版・返になると発表があった『ゲーム歴史』の1、2、3の中で、歴史的に見て問題があり、かつ僕が指摘できるところについて記述していくテキストだ。 (12)は3巻の第22-24章とあとがきを扱ったものになり、今回で最後になる。 いつもの2倍ぐらいの長さがあるので、覚悟して読んでいただきたい。 該当のの引用部は読みやすさを考慮してスクリーンショットからonenoteのOCRで文字の書きだしをしたものを僕が修正したものになっている。なので校正ミスで文と若干ずれたり、誤植がある場合があるかも知れないが、そこは指摘いただければ謹んで修正させていただく。 シリーズは以下のリンクを読んでいただきたい。 『ちょっとは正しいゲーム歴史』を国会図書館に納しましたゲームレジェンド新刊『ちょっとは正しいゲーム歴史』できました書籍「ゲーム歴史」について(

  • どうしてハドソンはROMカートリッジを自社生産しなかったか? | Colorful Pieces of Game

    『ハドソン伝説』に関係して「どうして独自カートリッジを生産しなかったか理由が書いてありましたか」と「ファミコンの最初期から任天堂さんがサードパーティとの生産委託の契約書を持っていた」という、正直な話として、1983-84年当時のことをいろいろ勘違いされているなというツイートを見かけたので、ちょっとここに書いておきたい。 まず「ナムコは独自でROMを生産したのに、どうしてハドソンは独自で生産しなかったのか?」。 答えは簡単で、ナムコはすでにマニュファクチャとして基板を大量生産する能力があったけど、ハドソンにはなく、なおかつそんなことをする金もなかったから。 当時、つまり84年ごろのハドソンはせいぜい数十人しか社員がいない小さな会社で、83年時点で売り上げが全部合わせて20億程度。 ROMの生産委託の2億行かないぐらいの費用すら、集めた問屋の注文を銀行に見せて、ようやく融資してもらっているサイ

  • 30年ぶりに同じ文句を言われたw | Colorful Pieces of Game

    PCエンジンminiのレビューが始まって『イースⅠ・Ⅱ』のレビューがあった。 【PCエンジン mini全タイトルレビュー!】「イースI・II」/「Ys book I&II」 ぶっちゃけた話として、30年前にパソコンユーザーに言われた文句とまるで同じ文句を書かれていて「こんなところまで復刻かよ」と笑ってしまった。 30年前にパソコンユーザーの特にPC-8801MkⅡSR以降版をプレイした人に良く言われた文句を順不同に並べると… イース1のエンディングがない (下と繋がるけど)THE MORNING GROWがない (これは綴り間違いではない。OSTでそうなっているのだ)ダームの塔でレベルが上がる、完璧なバランスを壊してるラストのリリアの扱いが気に入らないサウンドのアレンジ版が気にいらないⅠとⅡを別々にプレイできないイースⅡのボス曲”Protecters”が入ってない声がいらないダルク・ファク

  • 『ときメモ』を巡る25年前の風景 | Colorful Pieces of Game

    PCエンジンminiで初めてときメモを遊ぶ人は「幼馴染の万能超人、藤崎詩織にふさわしくなるために自分を鍛えるゲーム」と信じてプレイして欲しいw 元ツイート このツイートをしたとき、いろいろな反応をもらったが、どうしてこう書いたかというと、僕が初めてレビューしたとき、すなわち94年の4月ごろにコナミからやってきた『ときめきメモリアル』のPCエンジン版をプレイするとき、そう思ってレビューを始めたからだ。 それはファミ通のPCエンジン版の最初のレビューでも知ることができる。 僕には伝説的な(7/7/7/6)のまともにプレイしたとは思えないレビューで、じゃあ実質ベタ移植のPS1ではなんで32点(8/8/7/9)なんだよと皮肉を言いたくなる代物だったけれど、書かれていたゲーム内容紹介-- 幼なじみの藤崎詩織ちゃんから告白されるのが目的の、恋愛ときめきシミュレーションゲーム。エンディングはプレーヤーの

  • イースⅠ・Ⅱ通史(18):イースⅠ・Ⅱ始まる | Colorful Pieces of Game

    イースの移植の話が始まったのは、僕がハドソンでPC-8801(MkⅡ SR)版『イースⅡ』にハマっていたから。 1989年1月、デビュー作の『凄ノ王伝説』がデバッグに入っていてヒマになっていたのもあり、北海道ハドソン技術部4Fの開発の隅にあった企画のエリアに入り浸って『イースⅡ』(88年発売)で遊び倒していた。 正確には一度は遊んでいたのだけど、もちろん『凄ノ王伝説』を作っているわけで、そのあと遊ぶヒマがなかったのだ。ハドソンの僕の机にあったのはPCエンジンとファミコンで、遊ぶチャンスがちょっとしかなかったのである。 そして遊ぶヒマが出来てからは2回クリアして、毎日デモ眺めてたんだから、どんだけ好きなんだと自分でも思ってしまう。 そこに当時ハドソンの常務だった中さんが「そんなにイースが面白いんだったら移植をしないか?」ともちかけてきた。 もともと僕はゲームを作る上で、ビジュアル指向・映

  • 『上海』を作った人達 | Colorful Pieces of Game

    『上海』の難易度についての話を書いたら、さすがワタクシのお友達たち、ハンパではない経歴の持ち主の人たちばかりで、次々と驚くべき事実がわかったので、今回はそれについて書いていきたい。 まず、なにより『上海』というゲームのオリジナルの来歴自体がとんでもなく面白かったので、そこから話を始めていきたい。 元システムソフトの石川さんと話をしていたとき、オリジナルの(Activisionの)『上海』の話が出たのだけど、ではオリジナルとはなんぞやと調べてみた。 そして『上海』について検索すると、例によって信頼の全くおけない日語版wikipediaがトップの方に出てきて「オリジナルはマッキントッシュ」と書かれていたのだけど、いくら調べてもそのソースが見つからない(ついでに書くと誰かが書き直した。だがPLATOだというソースはどこにもないので、なんだかなあと思ったが)。 Activisionのゲームだから

    kujoo
    kujoo 2019/08/16
  • イースⅠ・Ⅱ通史(12):Ⅱの開発は続く | Colorful Pieces of Game

    今回は、1987年7-8月あたりの話になる。 前回、イースⅡの開発が始まったとき、天空に行く以外のネタは何も残っていなかったコト、テストマップとしてムーンドリアの廃墟を作り、そこで魔法が登場し、聖域という案を思いつくのと同時ぐらいでランスの村を作っていた、なんとリリアはドットが先でキャラクタが後だったなんて話を書いた。 少し追記しておくと、PC88SRのALUによる合成を画面外でやるイース方式ではソフトウェアスプライトの数に重大な制限があり、アドル+3体のキャラクタだけだった。山根はイース1で3体を少しでも多く見せたくて、ミネアの街では双子を作った。そして大浦君は3体しかいない動けるキャラの1つをリリアにしたわけである。だからミネアの街のレアは街の固定キャラだし、イースⅡの医者も移動できないわけだ。 コンテを描き、リリアのキャラクタを描いたはずの山根は木屋さんに取っ捕まって『ソーサリアン』

  • イースⅠ・Ⅱ通史(11):イースⅡ、始まる | Colorful Pieces of Game

    このシリーズは様々な人にインタビューして、だいたいはっきりしたパソコン版の『イース1』から、海外PCエンジン版(TurboGrafx 16)の『イースⅠ・Ⅱ』までの通史として、出来るだけ当時の事情なども織り込みつつ、書いていこうというシリーズだ。だから85年あたりから話は始まり、90年5月で終わることになる。 ただし30年も昔の話で連絡が取れない当事者も多く「様々な人から聞いて、どうやらこうらしい」という部分が多々あり、こうだろうと推測して埋めているところもあるので、知っておられる方は遠慮なく教えてくれるととても嬉しい。 それからコメント欄は承認制なので「表にするな」と書いてくれれば、表にしません。 さて文。 1987年の6月の終わりから7月初め、『イースⅠ』が発売され、他機種の移植の終わった橋さん(他の移植は進行中)と大浦さんで『イースⅡ』のストーリーを考えるミーティングをしたとき

  • イースⅠ・Ⅱ通史(10):イース1とファザナドゥの補足 | Colorful Pieces of Game

    ちょっとした理由があって「ともかく短く(2文字)で、せいぜい真ん中に長音がある程度の地名」という条件で『世界文学にみる架空地名大事典』の中から発見したのがイース。 で「Ys」だと知って、大浦君にロゴを頼んだわけだ。 僕の家にもあるので、該当箇所(69ページ)をスキャンしてきた。テキストを読むとわかるがプロマルクって、明らかにプロマックの街だよねとわかったりするのが面白い。 MSX2のイースについて コメントの質問 MSX2版イースは確かソニーのMSX2とコラボしてて HB-F1XDでしか動かない懸賞版あったと思いますか そこら辺の裏話ってあったりします? ■ファルコム関係者の証言 MSX2版のイースⅠは、HB-F1XD(FD搭載機)のバンドルソフトでした。 SONYさん提供の「機種チェック」(SONYチェック)が組み込まれています。 宮崎さんが移植の終わり頃に「SONYチェックが、まだ来な

  • イースⅠ・Ⅱ通史(8):『ファザナドゥ』開発物語(1) | Colorful Pieces of Game

    これはイース通史の中で、イースとは直接的には関わりのないエピソードなのだけど、ハドソンが『イースⅠ・Ⅱ』の許諾を取る上では、大きな問題になった…と思われる『ファザナドゥ』のエピソードだ。 まず『ファザナドゥ』という作品について、簡単に説明しておきたい。 『ファザナドゥ』はファルコムの大傑作ソフト『ザナドゥ』を、ハドソンがファミコン用に移植したゲーム、ということになっている。 「ということになっている」というのは、発売されたゲームが、まるで別物だから。 ここで名誉のために書いておくと『ファザナドゥ』は、まあまあ出来がいいRPG要素の入ったアクションゲームだ(RPG要素の入ったと書いているのは経験値による成長サイクルがないのでCRPGとは呼び難いから)。 ただアイテム名やモンスタ―名、それとも称号に共通しているものがある以外は、何一つ『ザナドゥ』と共通点がなく、「どうして『ザナドゥ』の名前がつ

  • イースⅠ・Ⅱ通史(5):PC88版イースの開発 (1) | Colorful Pieces of Game

    このシリーズは様々な人から聞いて、どうやら(だいたい)はっきりしたパソコン版の『イース1』から、海外PCエンジン版(TurboGrafx 16)の『イースⅠ・Ⅱ』までの通史として、出来るだけ当時の事情なども織り込みつつ、書いていこうというシリーズだ。だから85年あたりから話は始まり、90年5月で終わることになる。 あと『イースⅣ』をハドソンが作ったとき、実は何があったのかを様々な所から知れたので書きたいのだけど、これについては25年経っても書いていいか少々考えてしまう「エーッ!?」なところが多いので…まあオプションとしておきたい。 またそもそも30年も昔の話で、連絡が取れない人が多くて(鬼籍に入られた方もおられる)、ある意味、間接的な「様々な人から聞いて、どうやらこうらしい」という話の部分が多々あり、こうだろうと推測して埋めているところもあるので、知っておられる方は遠慮なく教えてくれると

  • 『ジャッジアイズ』が「ちょ、まてよ」なぐらい面白かったよ::Colorful Pieces of Game

    制作の人たちに向けたラブレター、みたいなものだと思って読んで欲しい。 正月、"JUDGE EYES:死神の遺言"、いわゆる『キムタクが如く』というやつを遊んでいた。 好みの問題はあるというのは前提にして、龍が如くシリーズの中では会心の出来というのが、僕の評価だ(同じ開発チームで、ゲームの構造が同じなのでシリーズ扱いさせていただいている)。 なぜそう思ったのか? もちろん単純にゲームとして面白い。 まずなによりメインストーリーがとても面白い。 最初のうちは提示される情報が非常に断片的で、わりと漫然とプレイしていたのだけど、6章あたりから提示された断片が繋がりだして事件の骨格が見えてきてからは興味がどんどんひかれて、9章からあとはやりこみ要素の事なんか忘れて、一気にメインストーリーを追ってしまう面白さだった(実際10-13章は一気にやってしまった)。 最後の方で「ちょ、これホラーゲーム」となる

  • イースⅠ・Ⅱ通史(1):PC88MkⅡSRの発売::Colorful Pieces of Game

    このシリーズは様々な人から聞いて、どうやら(だいたい)はっきりしたパソコン版のイース1から、PCエンジン版のイースⅠ・Ⅱまでの通史として、出来るだけ当時の事情なども織り込みつつ、書いていこうというシリーズだ。 イースを作ったころと重なるのもあって、一度イースを作ったころの記事は削除しようか迷ったのだけど、比較することで「何がわかったのか」がわかるようになるなと思ったので残すことにした。 ものすごく長くなると思うのだけど、まとめて夏コミで最終的に新刊としてリリースされることが目標だ。まあ問題はとんでもないページ数になりそうな予感がすることだけど… また、このシリーズは、山根のバカ、五十嵐さん、古代祐三さん、進藤、長山君、百田のバカ、飯淳、その他名前を少し書きづらい沢山の方々から得た情報で書かれている。僕に情報をくださった方々に感謝したい。 ということで編。 世がファミコンブームに沸き立ちつ

  • リリアの乳揺れのこと::Colorful Pieces of Game

    約30年前に『イースⅠ・Ⅱ』を作ったとき、ハドソンのアートのバイトとして、チームに百田という男がいた。 彼は主にビジュアルの絵を 山根に言われて一生懸命、ドット打ったり、アニメ作ったり、キャラ詰めたりしていた。 その彼と数年前からfacebookで繋がっていたのだけど、なんと今日誕生日だというので思い出したのが「リリアの乳揺れ」のことだった。 約30年前の、1989年の夏のある日、彼はメモリが全然ないインターミッション(イースⅠとⅡをつなぐアニメパート。僕はインターミッションと呼んでいた)で、リリアの振り向きのアニメを作っていた。 それが、右のシーン。 ところでインターミッションは恐ろしいほどメモリが足りないところで、なんかやるたびにパンクするところで死にそうなのにである、百田の野郎は勝手に(マジで勝手にだw)、この振り向きリリアに乳揺れさせた。 そしてである。 「岩崎さん、揺れてるんです

    kujoo
    kujoo 2018/10/24
  • 続・PCエンジン時代の圧縮::Colorful Pieces of Game

    8ビット時代の圧縮の話をブログに書いたところ、いろんな人が「俺も使っていた」とlzssについてゲロっているのを読んで笑ってしまったのだけど、ちょっとここで、つぶやかれていた質問「どうしてファミコン時代には圧縮がほとんど行われていなかったのか?」について書いておきたい。 初期のファミコンではキャラクタの圧縮は全くできなかった。なぜならキャラクタは別のROMとして搭載され、直にPPUがアクセスする形式だったからだ。 コレについて詳しく説明するのは面倒くさいので『ファミコンメガロムの開発とPCエンジンのアセンブラ』という、僕と『ZANAC』とかPCエンジンの『ガンヘッド』とか書いた広野さんの話のまとめでも読んでほしい。 ともかくPPU側がキャラジェネに直接アクセスする形式だったので、初期のファミコンでは圧縮はマップしかできなかったのだけど、これまた厳しい制限があった。 というのも、圧縮されたもの

    続・PCエンジン時代の圧縮::Colorful Pieces of Game
  • ゲーム開発しくじり先生 in イースⅠ・Ⅱ::Colorful Pieces of Game

    ゲーム開発しくじり先生ってまとめを読んで大笑いしつつもあるあるすぎて苦笑いしたりイロイロだったんだけど、それで思い出したこと。 書き忘れていたことなので、忘れないうちにメモっておく。 『イースⅠ・Ⅱ』の『Ⅰ』のボスで、ダームの塔に『コンスクラード』(スタッフの間での通称は「岩」だった)という大変に影が薄いボスがいる。 実際、パソコン版をプレイした人間にボスの話をさせると 「最初のボス」 、「ムカデ」、 「コウモリ」、「カマキリ」、「顔」、は出てくるが「岩」はたいてい出てこない。それどころか「岩」を忘れて「ダルク・ファクト」を入れてボスは6体だとか言っちゃう人もいるぐらいだ。 ビックリ難易度のカマキリと顔の間に挟まれて、直後が鏡の間で迷うし、攻略がスゴく簡単で、たいてい初めての攻略、運が悪くても2回目ぐらいで攻略できてしまうので印象が薄いのも仕方ないかな…と思えるボスなのだけど、実はPCエン

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    kujoo
    kujoo 2016/06/17
  • スプライトローテーションという技術::Colorful Pieces of Game

    正しい呼び方があったわけでもないけれど、少なくとも僕はスプライトローテーションと呼んでいた技術について、ちょっと残しておこうというのが、今回のネタ。 おっそろしく古臭いハードの、おっそろしく古臭い技術で、残しておいたから「どうだ」ということでも全くないが、まあ後世のエミュレータを調べた人たちが「なんでこんなワケのわからんことをしていたんだ?」という疑問からは脱出することが出来るだろう。 めんどくさいので、以下の簡単な前提。 スプライトは、1980年代前半~1990年代半ばまでゲームで幅広く中心的に使われたグラフィックのハードウェア(および一部ソフトウェア)技術。 だいたい8x8~64x64ドットの矩形で、画面の座標を指定したら、速攻その場所に異動して、背景画面を壊さなくて、書き換え負荷がない神様みたいなモノ。透明色があったので、背景との重ね合わせも超カンタンである。ちなみにスプライトの指定

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    kujoo 2015/10/05
  • SECCON 2015 で喋ったこと::Colorful Pieces of Game

    CEDEC 2015で開催されたSECCON 2015横浜予選で、どういうわけか特別審査員とやらエラく大げさな名前のシロモノをやらせていただきました(記事)。 SECCONは簡単に書くと、セキュリティコンテスト、具体的にはどないしてサーバーのセキュリティを破るかといった攻撃をどんだけうまくやるのかとかを競う競技です(優秀な攻撃者はもちろん優秀な防御を考えられるので)。 その予選がCEDECで行われ、ゲームのチートをいかにうまくするか? が競われたわけです。 詳しい内容はSECCON 2015でも見ていただきたいのですが、簡単に内容を説明しますと、2つのAndroidソフトが渡され(サーバーと通信するもの)、それをチートしろ、という内容です。 クライアント体をチートする方法は、チェックルーチン潰し・メモリハック・プログラムの書き換えといった、はるか遠い昔、PC88時代から連綿と伝わる伝統芸

    kujoo
    kujoo 2015/08/30
  • PCエンジンの倫理規定::Colorful Pieces of Game

    とはいっても、まあ18禁はなかったのだけど、それでもファミコンと比較した時、PCエンジンは最初から全体にヌルくて、例えばPCエンジン初期のナムコの『妖怪道中記』の乙姫様のストリップふうな踊りだの、『コズクミックファンタジー』みたいにギリギリのサービスシーンのようなものが普通にあった。 ついでに書くと、1990年あたりになると乳首ポロリもフツーになるのだけど、これがどこらへんからフツーになったのかはよくわからないが、アートで容量の無駄使いをしてもなんとかなるCDROMが登場してからなのは間違いない。そして『ウルトラボックス』では間違いなくやっていた。 ただ、当時(80年代後半)はもともとそこらへんが緩くて地上波で平気で乳首が出る世界だったから、そう驚くことでもなかったと思う。 むしろ任天堂さんの方が子供向けってことで厳しかったに近いと思っている。 ところが、この倫理規定が全くなくて、なおかつ

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    kujoo 2015/03/08
  • 天外Ⅱの戦闘システムについて(2)::Colorful Pieces of Game

    説明を始めると深入りして、面倒くさいから書きたくなかったのに、コメントで書かれてしまった上に「どうしてウィザードリィやドラクエがそういうシステムなのか?」を知らない人も沢山いることが、ツイッターとか見ていてわかった。 しょうがないので、話を一度前に戻して「なぜ、フェイズシステムなのか?」を解説するところから、今回は始めたい。 初代の(最近はクラシックというらしいけど)D&Dは、元々作った会社がTSRって有名なミニチュアール(フィギュアを使ったシミュレーションゲーム)だの、けっこーマニアックなボードシミュレーションを作っていた会社で、しかもD&Dは「ミニチュアールの戦闘ゲームにいろいろオマケのルールを付け足していったらRPGになりました」という代物なので、結構、戦闘がヘビーなゲームで、来は方眼紙の上にフィギュアを置いてプレイし、距離だのなんだのまでルール化されているゲームだった。 ところが

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    kujoo 2012/09/18