タグ

権力に関するlotus3000のブックマーク (13)

  • 反知性主義としてのメシウマ(五輪へ猛威をふるう情緒人民裁判)

    東京五輪エンブレムの使用中止に、ネット炎上の影響が「無かった」とは言えないと思う。 もちろんこの「思う」は、関係者に取材をあてて話を聞いたわけではないし、感想レベルだ。 でも、まあそうかな。そうだろう?当たり前だろ!というネットの個々人の反応は予想がつく。 何の証明も無く、何の責任も負わず、ただの「感情」のうねりが、エンブレムを使用中止に追いやったのじゃなかろうか。 それは、来の意味での反知性主義に近いのでは無いか。 リンチと人民裁判と、群衆から石を投げる人達 そうした“リアルの与論”に近い性質を帯びるようになった“ネット世論”が、警察や裁判所や第三者機関を介するでもなく、リツイートやシェアやまとめサイトを経由して増幅し、テレビや週刊誌を先回りするかたちで問題を暴き、批判し、蹂躙していく――その風景が、私にはとても恐ろしく感じられた。 ネットの暗い情念が“世論”と接続してしまう怖さ -

    反知性主義としてのメシウマ(五輪へ猛威をふるう情緒人民裁判)
  • 外見的立憲主義型市民憲法としての明治憲法の限界 | Kousyoublog

    近代市民憲法は、権力の濫用を阻止し、人権の享有を確保することを課題とする。憲法という名称の法典が存在しているにもかかわらず、その課題にこたえる内容を欠いている市民憲法を「外見的立憲主義型の市民憲法」という。「外見的権利保障」は、憲法の保障で国民の権利が保障されているにもかかわらず、権力に十分に対抗できない権利の保障をいう。(注1) 十九世紀、市民革命と産業革命によって市民憲法を整え、資主義経済を浸透させた英米仏の国力は他を圧倒しつつあった。後発国としてそれを追う立場のプロイセンは革命を経ずに近代化を行う「上からの近代化」路線を取る。 「封建的土地貴族のイニシアティヴにより、封建的土地貴族と農奴の関係をそのまま資・賃労働関係に再編成し、政治的にはそれに対応する外見的立憲主義の憲法によって立憲体制の外見をほどこすという、近代化のしかたである。」(注2) そのため、可能な限り旧い原理が温存さ

    外見的立憲主義型市民憲法としての明治憲法の限界 | Kousyoublog
  • ララビアータ:井上達夫氏の新著と憲法論 - livedoor Blog(ブログ)

    井上達夫氏から、新著『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版)をお送りいただいた。その内容についての評価は、時局がら厳しくならざるを得ない。ここでは厳密な書評というより、時局論として限定的な批評をしたい。事態はそれほど切迫しているからである。それ故、問題を憲法9条の問題に絞って論じることにする。 全体として、政治的センスの欠けた空論という印象である。ひょっとしたら、「リアリティ」に流されて規範的議論に欠けがちな我が国の論争状況において、わざとそうふるまっているのかと錯覚してしまうほどである。 憲法9条についての空論――それはその歴史的沿革を無視して条文だけに拘泥することによる。解釈の対立が生ずる場合、憲法の精神(憲法の政治哲学)に立ち返って、参照することが必要である。 ところが日国憲法の場合、難しい問題がある。一つは戦争放棄であり、もう一つが天皇

  • 現在の「網野善彦」(メモ) - Living, Loving, Thinking, Again

    桜井英治、清水克行「中世史の魅力と可能性」『図書』784、2014、pp.12-19 少しメモ。 清水 安倍首相が、日史を高校でも必修化すべきだ、日人としてのアイデンティティ、歴史文化に対する教養を備えるためにも日史をもっと学習するべきだと言っていますね*1。ところが、中世史からはそこで期待されているようなものが生まれてこないんですよね。むしろ日人のアイデンティティを揺るがすような、近代とか国家とか自明視してきたものを覆すのが中世史ですから。今こういう時代だからこそ、むしろ中世史って大事じゃないかと思うし、非近代的な要素を拾い出してくる作業は、これからもっと必要になる気がしています。 桜井 中世って今の政治家からすると日史の邪魔な部分なんでしょうね。 清水 道徳でも過去の歴史上の人物を教えろと言いますが、そういう中に一人も中世の人物が入っていないのは痛快です。時の政府に都合のい

    現在の「網野善彦」(メモ) - Living, Loving, Thinking, Again
  • 王権の条件としての血統と即位儀礼についてとりとめなく | Kousyoublog

    ちょっとメモ。 『人が王となるのは、その起源は共同体首長に発するが、王家となって以後は、王たる者の血筋を引くことと即位儀礼の存在が条件となる。もちろん、政治的・軍事的実力やカリスマ性などによって新しい王朝を開く場合は、その限りではない。 比較的平和裡に王朝交代を実現する場合は、王の血統はいわば必要条件であり、たとえばフランスでは、カペー朝、ヴァロア朝、ブルボン朝は替わるが王はすべてカペー家の血筋の者によってたてられ、カロリング朝の王位を簒奪したカペー朝のパリ伯ユーグ・カペーにしても、権威あるカロリング朝のシャルル・マーニュの末裔を自称した。日の場合でも、天皇家において血統が絶対条件であったことは周知のことで、鎌倉・室町幕府=王朝においても将軍=王になるのは源氏=天皇家の末裔であった。秀吉の場合は、その欠点を補うために、日輪神話や落胤説などが唱えられたし、家康の場合は吉良家から系図を取得

    王権の条件としての血統と即位儀礼についてとりとめなく | Kousyoublog
  • 戦闘教師「ケン」 激闘永田町編: 保守は「偉人」がお好き?

    【道徳教材「心のノート」に偉人伝も 下村文科相】  下村博文文部科学相は1日の衆院予算委員会で、道徳教材として使われている小中学生向けの「心のノート」の全面改定に関し「たとえば偉人は歴史、国境を越えて人が人として生きる道標として参考になる。エピソードをいろいろと入れることで生きる勇気や頑張る気持ちを提供する」と述べ、偉人伝を盛り込む意向を表明した。日維新の会の三木圭恵氏に対する答弁。  一方、甘利明経済再生担当相は、政府が年央にまとめる予定の中期財政計画について「財政再建プランを出す際には、成長戦略でどう税収が伸びていくかも可能な限り織り込みたい」と述べた。生活の党の村上史好氏に対する答弁。 (産経新聞、4月1日) 自民党はまた愚劣極まりないことを言っている。 偉人伝教育というのは、一種のイデオロギー教育だからだ。 教材に偉人を取り上げるためには、まず誰を載せるか選定する必要がある。その

  • オタクがリベラルを嫌うのではなく、弱者がリベラルを嫌うという構図。その背景にあるもの。 - 華氏451度へのカウントダウン

    リベラル、脱原発はなぜオタクから支持されない?』 http://togetter.com/li/404412 こんなまとめを見かけたので、自分なりの見解をまとめてみた。 これはオタクという属性に問題があるのではない。 もちろんオタクにはリベラルな者達が大勢いるのは、都条例反対運動が大きく盛り上がった事実からも分かるだろう。 ならばどういうことなのか。 これはつまり”同族嫌悪を起こしている社会的弱者達”の中に、オタクやネトウヨもいるということだ。 反原発などのリベラル勢力は来は社会的弱者(以下、弱者)を保護し、支援するはずの存在だ。多様性やマイノリティを尊重し、平等や平和を旨とする。 そんな彼らをなぜ弱者が叩くのか? それは 反原発などのリベラルには、基的に弱者を守ろう・認めよう・共に繋がっていこうという考えが、根底にあるからだ。リベラルを受け入れるには、まず弱者自身が”自分は弱者であ

    オタクがリベラルを嫌うのではなく、弱者がリベラルを嫌うという構図。その背景にあるもの。 - 華氏451度へのカウントダウン
    lotus3000
    lotus3000 2012/11/10
    福沢の痩せ我慢の説の暗黒面とも読めるなあ。弱者と貧困の自認を阻むもの。思想は厄介な存在だけど、これを可能にするから必要なのだろう。
  • 生活保護「受給者バッシング」の正体---年間支払額3.3兆円、受給者210万人の「世界」を徹底検証 【第1回】(G2) @gendai_biz

    生活保護「受給者バッシング」の正体---年間支払額3.3兆円、受給者210万人の「世界」を徹底検証 【第1回】 安田浩一(ジャーナリスト) 小高い丘を登り切ったところに、その墓はあった。墓誌はない。縦型の墓石には「佐野家之墓」とだけ刻まれている。 周囲を囲むように植えられたヒマワリの花が真夏の日差しを受けながら、夕張山地から吹く穏やかな風に乗って揺れていた。 この墓には、最近になって佐野湖末枝さん(死亡時42歳)と妹の恵さん(同40歳)の遺骨が納められた。 姉妹の父親は、この近くの町で炭鉱夫をしていた。だが長女の湖末枝さんが中学生の時に病死。その後、病弱だった母親も父親を追うように亡くなっている。 一家はようやく同じ場所で再会した。あまりに悲痛な再会ではあるけれど---。 軽く手を合わせてから、墓石を背にして町を見下ろす。寂しい町だなあと思う。メインストリートに人影はなく、草木が風でザワザ

    生活保護「受給者バッシング」の正体---年間支払額3.3兆円、受給者210万人の「世界」を徹底検証 【第1回】(G2) @gendai_biz
  • 戦闘教師「ケン」 激闘永田町編: 国境紛争を甘く見るな

    【日人尖閣上陸、政府の想定外…認めない方針】  尖閣諸島・魚釣島に19日、日人10人が上陸したことは、政府にとって想定外の事態だった。  不法上陸事件で逮捕した香港の活動家らを17日に強制送還し、早期収拾を図ったばかり。政府は国内外の反応を注視するとともに、尖閣諸島には原則として政府関係者以外の上陸を認めない方針を徹底する。  「どのようにするのが上策かということだ。しっかり考えていくべきだろう」  外務省幹部は19日、尖閣諸島への上陸は日の領土保全には寄与しないとの見方を示した。中国のデモなどをあおり、政府が目指す「平穏かつ安定的な維持管理」に悪影響を及ぼしかねないからだ。 (読売新聞、8月20日) 国境係争地では、些細な事故や事件が武力衝突に至り、大戦争に陥ってしまうことがある。 1937年7月7日に起こった盧溝橋事件は、日中の軍事境界線上で日軍が夜間演習を行い、そこに中国側で

    lotus3000
    lotus3000 2012/08/21
    一歩間違えると第一次世界大戦フラグや日中戦争フラグが待っている危険性。
  • もちつけblog(仮)、、、の跡地(はてなダイアリーに移転。) マイノリティが切り開いた自由と平等の両立 -ついでに政治への無関心と憤りについて- 福田歓一『近代民主主義とその展望』を読んで

    福田歓一『近代民主主義とその展望』を読む。 確かに、繰り返し読みたくなる名著。 近代の民主主義を押さえる上での基文献の一つ。 興味深いと思ったところを。 近代民主主義の起源と、自由と平等の関係について。 二つは背反していると思われがちだが、必ずしもそうではない歴史を持つ。 近代の民主主義の特徴とは、「一切の権力に先立つ個人の自由」(113頁)。 身分も、所得も、宗教も、性別も関わりなく、自らの権利を主張することができること、これが特徴。 これは、政治社会に先立つ人間の生まれながらの権利、つまり自然権と呼ばれるもの。 こういった権利が生誕したのは、一七世紀におけるイングランドの革命のときであり、基的なモデルは、国教制度に反抗するピューリタンたちの信教の自由、内面の自由、良心の自由の主張だった。 (もっと起源を遡れば、ルターの宗教改革にまで届きうる) こうした近代の自由とは、古代における自

  • Twitter / kaokao_ooya: 生活保護を叩く人は多分自分が病気などで働けなくなった ...

    生活保護を叩く人は多分自分が病気などで働けなくなった事が無い人だと思う。実際、生活保護の受給審査は厳しく財産処分が求められる。つまりサラリーマンが一生の買い物と思って購入した自宅もローン付きで売却しないといけない。車NGだし、家具家電なども制限がある。携帯もNG。そこに自由は無い

    Twitter / kaokao_ooya: 生活保護を叩く人は多分自分が病気などで働けなくなった ...
  • 形式主義という実験ラボ - Freezing Point

    石川和広(@ishikawakz)氏 と 岡崎乾二郎(@kenjirookazaki)氏 のやり取り。 石川: 私小説の「私」っていうのは書く活動における「実験ラボ」みたいなものとしてとらえた方が良いですね。たぶんそうすると「命を懸けて書く」というと精神論的になるから言い方を変えると「私という世界に現象するものを記述する」とはいえる。 岡崎: そう遭難。 やっぱり命をかけて、書くのではないでしょうか? 先に私があるのではなく、書くことによって私が…いや、ちゃんとやれば自分の理性や意識が作り直され、変調、失調、喪失してしまうはず。それが形式主義の醍醐味。 形式のフレームをはめて、そこでひたすら没入するからこそ、自分が何をやっていたかに気づき、“遭難” する。 遭難した場所からしか取り組み直すことができない。 私はこれを、社会生活について考えようとしている。とりわけ、職場や親密圏について。 そ

    形式主義という実験ラボ - Freezing Point
    lotus3000
    lotus3000 2010/12/15
    なんだか短歌という形式で救われた穂村弘と似た問題が…/id:ishikawa-kz、形式を意識するうちにそのズレがめだち、そのズレを形式にとどめるか外すことで表現とともに私が作られるという感じでしょうか
  • 国旗・国歌問題 実りのないカタルシスゲームの末路 - Munchener Brucke

    国旗国歌法制定や教育法改正以降、教育現場や公の場で国旗掲揚・国歌斉唱を推進する動きが広がっている。現場の公務員はお上の通達を事務的にこなしているだけなのであろうが、そもそも何のために行う施策なのか目的を見失ってしまっているような気がする。 結論から言うと、保守系政治家の自己満足+コアな支持者向けのパフォーマンスというベクトルと、政治家に教育問題に関心を持ってもらって教育予算を多く確保したい官僚組織のベクトルの合力によって推進されていると言っていいだろう。 困ったことに、保守系政治家やそのコアの支持者は、既に多くの現場でより多くの国旗が掲揚され、より多く国歌が斉唱されることに関心を持つのでなく、国旗・国歌に反対する勢力を公権力によって成敗して欲しいということにより多くの関心を持っているような気がする。反対勢力が罰せられることにカタルシスを得る一種のゲーム参加の感覚になってしまっている。

    国旗・国歌問題 実りのないカタルシスゲームの末路 - Munchener Brucke
    lotus3000
    lotus3000 2010/09/14
    これは感じる。なんというか双方の劣化と積み上がらない言葉ってなにからくるんだろう。浅羽通明の苛立ちも多分ここにあるのでは?
  • 1