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「学問のひと」と政治(追記あり) - 擬似環境の向こう側
学問は「私が一番正しい」ことを明らかにする 世の中には、同じ領域であってもまったく見解が異なる学問... 学問は「私が一番正しい」ことを明らかにする 世の中には、同じ領域であってもまったく見解が異なる学問的立場というものが存在する。経済学は素人なので、確たることは言えないのだが、いわゆる近代経済学とマルクス主義経済学というのがそれに該当するのではないかと思う。しかし、全く立場が異なる研究者のあいだで激しい論争が起きるかと言えば、必ずしもそうではない。 というのも、お互いの出発点も認識もまったく違うので、話がそもそも噛み合わないのだ。むしろ、学問的論争というのは、立場はわりと近いものの方法論や認識のうえで見解を違える研究者のあいだで発生することが多い。たとえば、古いけれども、マルクス主義者の間で起きたミリバンド―プーランツァス論争などが想起される。 これは学問というものの性質上、仕方がないことだと言える。(自然科学については無知なので分からないけれども)人文社会科学の場合、研究は既存研究の批判的
2015/02/14 リンク