被害者性の競合と奪い合い この映画が与える教訓は2つある。 1つは、人間の行動が理性だけでなく刹那的な感情によっても支配されているということ。 他者の暴力的な振る舞いや扇情的な言葉など、自らの「尊厳」が傷つけられるような事態に直面した人間は、理性の支配下では発さない言葉を発したり、落ち着いていれば振るわない暴力を振るってしまうことがある。 このことは、胸に手を当ててみれば誰もが自分の経験を通じて理解できるだろう。 もう1つは、こうした個人個人の「尊厳」が、「民族」や「国家」、「宗教」、あるいはその他様々の「社会的に想像・構築されるアイデンティティ(自己同一性)」と骨がらみになっているということ。 2人の私的ないざこざが国全体を巻き込む大炎上へと発展し得たのは、そのいざこざが「民族」や「歴史」に関わるものだったからだ。 「自己」同一性の想像と構築のプロセスは、常にすでにその「自己」と対決する
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