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ブックマーク / end-of-scan.hatenadiary.jp (2)

  • 表現する依代としての初音ミク - end-of-scan

    どこかの誰かが触れている内容かもしれないけど、はてなダイアリーを読んでてぴんときた。 初音ミクには、拙いけど表現をしようとする存在、という重要な設定がある。それは初音ミクを使って自分を表現しようとする人と重なる。初音ミクは表現したいという欲求を代弁するモノになっている。そのような人に成り代わって表現しようとする依代になっている。消費されることによる消耗を初音ミクが請け負うことで欲求が共有される。補償行為が、エロとかオタク批判のようなタブーと直結するものではなく、(傷つくことなく、押し付けがましくなることなく)他者とつながりたいというネット的な欲求に起因している点で、フェティシズムとは違って自然な伝播し方になっている。 消費の代替物でなく、表現の代替物である、という点で動ポモから先の地平に到達しているんじゃまいか。

    表現する依代としての初音ミク - end-of-scan
  • つまり携帯小説は伝奇小説であって - end-of-scan

    夜の街から越境してやってくる異能の者であるホストはサンカ*1なんだろう。彼女たちはホストたちに理不尽に恋愛感情や命を持っていかれている。彼らに交わることで脱中心化を果たしている。新伝奇については笠井潔が「空の境界」の後書きで気合の入った評論を書いていたっけ。 そう考えれば、携帯小説をくだらんというのはナンセンスだといえる。問うべきなのは、携帯小説の世界の周縁がどこにあるのか、てことだろう。 *1:ホストの人たちを神聖化する積もりも蔑視する積もりもなく、サンカ文学という枠組みでの一つの役割として書いています

    つまり携帯小説は伝奇小説であって - end-of-scan
    masapguin
    masapguin 2007/08/29
    目鱗
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