【2月2日 Xinhua News】中国黒竜江省(Heilongjiang)漠河市(Mohe)阿木爾鎮の気温観測所は1日午前7時18分、氷点下49・7度を観測した。気象部門が過去データと照合し、同市における過去50年間の最低気温と認定した。 漠河市は同省西北部、大興安嶺山脈の北麓に位置し、観測史上最低気温は1969年に記録した氷点下52・3度となっている。(c)Xinhua News/AFPBB News
【2月2日 Xinhua News】中国黒竜江省(Heilongjiang)漠河市(Mohe)阿木爾鎮の気温観測所は1日午前7時18分、氷点下49・7度を観測した。気象部門が過去データと照合し、同市における過去50年間の最低気温と認定した。 漠河市は同省西北部、大興安嶺山脈の北麓に位置し、観測史上最低気温は1969年に記録した氷点下52・3度となっている。(c)Xinhua News/AFPBB News
スドー🍞 @stdaux 満洲国ができてから滅ぶまでが13年間、ツイッターができてからもう14年間だからツイッターのほうが長いのか 2021-01-16 15:59:32 リンク Wikipedia 満州国 満州国(まんしゅうこく、旧字体:滿洲國、拼音: Mǎnzhōu Guó)は、1932年(大同元年)から1945年(康徳12年)の間、満州(現在の中国東北部)に存在した国家。 中華人民共和国の歴史書や事典などでは、日本帝国主義が東三省を武力占領した後に捏造した傀儡政権、傀儡国家。とされ、その傀儡性や反人民性を示すために"偽満洲国"あるいは"偽満"と称しており、中華民国 (国民党・台湾政府)で出版されたものでも同じである。日本での見方は当然のように違い、おおむね満州国の政治実態に重点をおく「傀儡国家」論、満州 41 users 246
ノトヴェイト @prime51041373 90歳代の入院患者さんからすごい話を聞くことができた。 検温の時に「若い頃はシベリアにいた」と。俺が思わず「え?シベリアに抑留されてたんですか?」と聞くと「はい」と。それで、俺も興味があったので少しお話させてもらった。以下におの人から聞いたお話を要約して記す。 ノトヴェイト @prime51041373 90代男性患者の話 ロシア人の言うことは嘘はかり。「国に返してやる」と言われて列車に乗ったらシベリアに連れて行かれた。当時自分は民間の仕事で満州にいた。シベリアでは森林伐採をさせられた。ある時、37℃ちょっと熱が出て、そしたら通訳やってた人が自分の先輩で「お前すぐ入院しろ」と言って ノトヴェイト @prime51041373 入院の手続きをしてくれて、それで入院したら帰国する列車に乗せてもらえることになった。完全に仮病だった。シベリアには4年いた
","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"
佐藤ハルエさん(95)。戦後、岐阜県ひるがの高原に移り住んで70年以上、この地で語り続けていることがあります。 「ソ連の兵隊を頼むには、女を提供するということで、私どもは犠牲になった。仲間も性病と発疹チフスとでバタバタと亡くなっていた」(佐藤ハルエさん) 75年前の敗戦直後、中国北東部・満州。1932年から日本が事実上の植民地としていました。 日本は国策として、満州へと移住する人を募りました。その数、全国で27万人。岐阜県からも約1万2000人が海を渡り、ハルエさんもそのひとりでした。 政府が満州に開拓団を送りこんだ狙いのひとつは、大陸で戦う日本軍の食糧増産。その裏で「満州国」の支配、防衛という軍事的な目的もあったとされています。 日本軍が中国の人から不当に安く買いとった家に住み、広大な畑でアジア人労働者を率いて作物を作る日々。山のように取れる作物をみて、住み続けたいと思ったといいます。
谷崎潤一郎が、第二次大戦中に執筆した『細雪』三部作、私はこの小説を2度読んでいる。最初は10年以上前になるだろうか、2度目はパンデミック渦中の今。世界的な傑作小説の1つである。大阪・神戸の裕福な商家の一家が、少しづつ貧しくなっていく物語だ。4人姉妹の内、三女と四女の結婚を中心に描かれているが、さして何かが起こるわけではない。実際、ほとんど何も起こらない。姉妹が最終的に結婚するかどうかすら、さして重要ではない。ジェイン・オーステンの小説ではない。 卓越した技術で執筆されている小説であり、中盤まで、読者は登場人物達を、己の人生の渦中において面識があるように感じられるほど、見事なまでに描かれている。ヒロイン達の些細な行動でさえも、何が動機となっているか心中で十全に吟味できるるので、ゆったりしたペースの文体は、まったくもって退屈とならない。1930年代後半の日本の社会環境について学びながら、心理学
「スパイの妻」の公開初日、映画館に足を運ぶ観客ら=16日午前、神戸市中央区御幸通8、神戸国際松竹(撮影・秋山亮太) 世界三大映画祭の一つ「ベネチア国際映画祭」コンペティション部門で銀獅子賞(監督賞)に輝いた「スパイの妻」が16日、全国で封切られ、神戸・三宮の神戸国際松竹でも黒沢清監督(神戸市出身)のファンらが足を運んだ。 「スパイの妻」は太平洋戦争開戦前の神戸が舞台。高橋一生さんが演じる実業家が日本軍による犯罪行為を知り、蒼井優さんが演じる妻と国際社会に訴えようとする。旧グッゲンハイム邸(同市垂水区)が夫妻の住まいとしてロケ地に選ばれるなど、神戸市内でも多くの撮影が行われた。 同館では午前9時35分からの初回には約40人が訪れ、上映前に列をつくった。蒼井さんのファンだという同市東灘区の男性(65)は「人が正常かそうでないか誰にも判断できなくなる時代性を考えさせられた。神戸税関など、知ってい
朝ドラ「エール」の戦時下篇が、ついに完結しました。全4週のなかで、やはり衝撃的だったのは藤堂先生の戦死でしょう。予科練に志願した弘哉君も亡くなりましたが、やはり、主人公の少年時代より出演していた前者のほうがインパクトは大きかったです。 これまで述べてきたとおり、恩師の戦死は史実ではありません。ただ、今回のドラマを構成する以上、必然的だったのではと思います。あえていえば、藤堂先生は戦死しなければならなかったのです。どういうことでしょうか。 ■終戦前後の古関裕而はなにをしていたのかその前に、終戦前後の古関裕而の史実を振り返っておきましょう。 先日の放送で、主人公の裕一は、ビルマからの帰還後、「比島決戦の歌」「嗚呼神風特別攻撃隊」を言われるがまま作曲。しかし、努力むなしく、8月15日、自宅で玉音放送を迎えました。 「比島決戦の歌」のエピソードは、だいたい史実どおりです。西条八十が書いた歌詞に、大
毎年、終戦記念日となると話題になる、靖国神社の「軍服コスプレ」。同神社に批判的な者はもとより、肯定的な者にも、「英霊に失礼」などとあまり評判がよろしくないが、このような光景はいつはじまったのか。 【写真】この記事の写真を見る(6枚) 「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」。平成の天皇が5年前このように発言した満洲事変の勃発より、今日(9月18日)でちょうど89年。そんな記念すべき日に、戦争が終わったとされる日の、ふしぎな現象を振り返ってみたい。 浅草で旧陸軍の軍服を仕入れた18歳「旧陸軍軍服姿、少佐の襟章の神奈川県厚木市、●●●●さん(18)。『中学校のころから戦争映画や“コンバット”を見て軍人が好きになった。軍服は浅草で仕入れました。天皇陛下は神様です』。26日に陸上自衛隊入隊とか」(中日新聞、1987年
1986年生まれ佐世保在住ライター。おもに地元の文化や歴史、老舗や人物などについての取材撮影執筆、紙媒体のお手伝いなど。演劇するのも観るのも好き。猫とトムヤンクンも好きです。 前の記事:西海楽園〜バブルに花開いたあの頃をふりかえる > 個人サイト ヤマモトチヒロのブログ 戦後から続く佐世保のロングセラー 豆乳といえば、こちらの紙パックタイプのものを思い浮かべる方が多いだろう。 毎日続ける大豆の健康 しかし、長崎県佐世保市で昔から販売されている豆乳はこちらである。 その名も「佐世保豆乳」である まず特徴的なのはロケット容器だ。チューチュー棒、チューペット、ボンボン、ポッキンアイス…地域や年代によってさまざまな呼び名があるかもしれないが、あのポキッと折れるアイスを連想してしまう。あと、駄菓子屋で売られていた舌の色が変わっちゃいそうな色をした甘い液体とかを。大人が見れば懐かしさ、子供が見れば物珍
川内追廻(かわうちおいまわし)は、宮城県仙台市青葉区の町丁。郵便番号は980-0863[4]。人口は1人、世帯数は1世帯(2024年1月1日現在)[1]。丁目の設定のない単独町名である。全域で住居表示が実施されている[5]。旧仙台区川内追廻、仙台市川内追廻。 仙台城本丸および三の丸の東側崖下、広瀬川右岸にあり、面積は約7ha[6]。大橋西詰付近に接続する1本の市道[7]以外は袋小路となっている。1950年代には約600世帯、約4000人が住んでいた[8]が、核家族化が進んだ平成に入る頃には600世帯弱ながら人口は約1/3まで減少した[9]。青葉山公園整備事業を進める市の方針により、2015年(平成27年)時点で居住しているのは3世帯のみとなっている[8]。 仙台城三の丸とは長沼を隔てた外側、広瀬川の内側にあたり、江戸時代には仙台城の防衛上重要な地であった。大橋の北西角にあたる北側が家臣の片
この記事で紹介されている仙台市追廻地区は現在立ち退きが完了し地区内に入る事が出来なくなっています。当レポートの取材は2010年5月当時のものです。ご了承下さい。 青葉城とも言われる、かつて伊達政宗公が築き上げ、代々伊達家の居城であった杜の都・仙台のシンボル「仙台城」。そのすぐ近くに、傍目から見ると目を疑うような不思議な街が存在する。そこは「川内追廻」(かわうちおいまわし)地区。追廻住宅と呼ばれる一帯だ。 仙台駅からも徒歩で来れそうな距離にある青葉城の真下、広瀬川沿いに開ける南北に長い平地には、戦後になって満州引揚者や戦災で家を失った市民の為に当時の住宅営団によって造成された「仮設住宅」の名残りが今に続いている。 戦後60年以上が過ぎ、仙台市側はあくまで仮設住宅として提供された土地であるとして、追廻住宅を更地にして青葉山公園として日本庭園などを整備する計画でいるが、一部住民が反発して立ち退か
8月19 一ノ瀬俊也『東條英機』(文春新書) 8点 カテゴリ:歴史・宗教8点 『日本軍と日本兵』、『皇軍兵士の日常生活』(ともに講談社現代新書)などの著作で知られる著者による東條英機の評伝。生い立ちから処刑までを丹念に描いています。今までのイメージを大胆に覆すという形ではないですが、東條の航空戦への見方を詳しく見ることで「精神主義一本槍」的なイメージに関しては多少なりとも修正がなされていますし、父・英教の軍での処遇を詳しくとり上げることで東條のある種の硬直性の背景がうかがえるようになっています。 また、永田鉄山、石原莞爾、武藤章、田中新一と昭和期の陸軍を動かした人物は何人かいますが、十五年戦争を「完走」した人物というと、やはり東條になるわけで、東條を追うことで日本が長い戦争に突入し、敗北する過程もわかるようになっています。 目次は以下の通り。第1章 陸軍士官になる第2章 満洲事変と派閥抗争
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く