ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。 85年8月12日に123便墜落事故。 そのときは、まだJALのコンサル業務は受注しておらずピッチの最中で、六本木のレストランで仲間と食事中に123便消息を絶つとの第一報を受けたことを覚えている。 翌年、体質改善のためのCIプロジェクトを受注し、89年まで当時本社のあった丸の内の東京ビルに通った。 伊藤淳二会長、山地進社長、利光松男副社長の時代である。 85年12月には国際線の独占廃止。87年には日本航空株式会社法が廃止となり完全民営化。VIデザインの導入は89年まで待つことになる。 87年3月だっただろうか、伊藤会長辞任後の混乱と停滞のさなかに、プロジェクトの仲間と御巣鷹山に昇った。愛・地球博のチーフプロデューサーとして活躍する福井昌平氏もその中にいたことを覚えている。 既に整