記事の前編では、そんな『ふてほど』が令和のコンプライアンス遵守や多様性尊重の規範に対して、一見、冷笑や逆張りをしているように見えるのはなぜかを考察した。 その背景には、物事を二元論で判断することを留保し、分断ではなく包摂を目指す彼の作家性があることは、前編で指摘した通りである。だが、そんな宮藤が『ふてほど』の中で唯一と言っていいほど明確に対立構図を示し、片方をはっきりと批判的に描いたものがある。 それは、「顔の見えない相手(システムやツール)とのコミュニケーション」と、「顔の見える相手(生身の人間)とのコミュニケーション」の二項対立だ。本作が疑義を呈するのは、もちろん前者のほうである。 第1話では、「♪話し合いましょう」と歌い上げることで「議論よりも対話を」という呼びかけが行われるが、同時に、猫型配膳ロボットが炙りしめ鯖200個の注文を通してしまうというコミュニケーションの齟齬を描くことに