去る09年7月16日のトムラウシ山での遭難事故で亡くなられた方へ心よりご冥福をお祈りいたします。 はじめてご訪問の方はこちら(自己紹介および投稿リスト等)をご覧ください。
blown by the wind 「猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ」(穂村 弘) いえ、私は読んでませんです…*1 深井純一著『水俣病の政治経済学』を読む(立命館産業社会論集 2000.9) 7ページ <深井> 逆説的な言い方をしますと,情報公開が制度化されていなかったから僕の研究は出来たと思います。熊本県の場合には,手書きで書き込んだ資料が何でもかんでも綴じ込んであったんです。情報公開制度が出来たらきれいに整えられた資料にして「どうぞ皆さん,閲覧希望者はコピー代を払って下さい」となる。これはほとんど役に立たない。新潟県も衛生部長が僕を応援してくれて,彼が在任中に作ったファイルが残っているのを閲覧することが出来た。しかしあまり役に立たない。 役に立つのは,私文書として担当官が手元に残していた物です。それを見せてもらうのは苦労しましたが。情報公開の制度化は要ら
本書に収録されたヴェーバーの講演がなされたのは1919年であるが、講演の内容とその歴史的時期については不可分に考えなくてはならない。以下は表紙の紹介文の引用である。 第一次大戦後の混迷のドイツ。青年たちは事実のかわりに世界観を、認識の代わりに体験を、教師のかわりに指導者を欲した。学問と政策の峻別を説くこの名高い講演で、ウェーバーはこうした風潮を鍛えられるべき弱さだと批判し、「日々の仕事に帰れ」と彼らを叱咤する。それは聴衆に「脅かすような」印象を与えたという。 ヴェーバーの講演は混沌とした状況を変えてくれるような、すなわち「革命」を待望するような浅薄で性急な気分が高まっていた社会的風潮に対する抵抗の意味合いを多分に含んでいる。 今日の日本においても、安易に当時のドイツと同一視はできないにしても、「事実のかわりに世界観を、認識の代わりに体験を、教師のかわりに指導者を欲」するという状況はかなり深
午後、好天に誘われて散歩。 ついでに春物の衣料を物色する。 いつものことだが、着る物を探していると、微妙に気持ちがふさいでくる。 なぜかって? 欲しいと思うのが高いモノばかりだからだよ。 つまり、オレはセンスが良い……と、そう言えば言えないこともない。が、より正確に言うなら、私のファッションセンスは、見事なばかりに拝金主義的で、ブルジョア的スタンダードに沿って序列化されているのですね。 っていうか「高価なアイテムがイコールエレガントなブツである」という身も蓋もない等式から一歩も外に出ることができずにいるわけなのだな。 「いや、そんなことはない。ファッションは個々人の美意識だ」 などと、建前論を叫んだところでどうにもならない。だって、「美意識」そのものが、ブルジョア意識の別名に過ぎないわけだから。 とにかく、 「おっ」 と思って値札を見るとすごい値段が付いている。 で、値札から先に探す方法で
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