鎌倉期の仏教説話集に『撰集抄(せんじゅうしょう)』がある。 芭蕉も愛読した『撰集抄』は、古くは漂泊の歌人・西行の作と信じられていたが、真偽のほどは疑わしい。いずれにせよ、この書にはユニークな説話が満載で、そのおもしろさを素直に受けとめたい。 説話のひとつ「西行於高野奥造人事」は、死者の骨から人造人間を造ったという、なんとも不思議な話だ。西行が造りあげた複製人間とはどんな代物だったのか。おぞましくも奇妙な物語を紹介しよう。 『撰集抄』五巻十五話「西行於高野奥造人事」 西行は高野山で修行中の身である。 ともに修行していた同朋に去られた西行は、語り合う友だちがほしくなり、かつて習った人を造る法をこころみる。西行は野に出て、死人の骨をとり集め、頭から手足へと骨を連ねた。そうしてとりあえずできあがったものは、色が悪く、人の姿に似てはいるが心がなく、声はあるが、まるで吹き損じた笛のような音をしていた。
全選手入場!! 超一流伝戒師の超一流の伝道だ! 生で拝んでオドロキやがれッ 日本律宗の開祖、鑑真だ! 空海は今も生きている! 日本仏教最大のスター、弘法大師・空海だ! 台密は俺が完成させた! 入唐求法巡礼1000km! 慈覚大師・円仁! 特に理由はないッ 三蔵が強いのは当たりまえ! 憲宗にはナイショだ! 三蔵法師・霊仙が来てくれたー! ZENを西洋に広めたのはこのわしじゃ! 世界のD.T.Suzukiこと鈴木大拙だー! 空海対策は完璧だ! 天台宗開祖、伝教法師・最澄! 真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊! disならこの人を外せない! 超A級喧嘩師・日蓮だ! 不死ですらない、不生なのだ! 一切は不生でととのっている! 大宝正眼国師・盤珪だ! 自ら狂雲と号して狂客ならず! 屏風から虎が出てきた! 天皇のご落胤にして虚堂七世孫・一休宗純だ! たりきには じりきもなし たりきもなし ただ いちめ
熊楠と幽霊 (インターナショナル新書) 著者:志村真幸 出版社:集英社インターナショナル ジャンル:新書・選書・ブックレット 幽体離脱を体験した知の巨人・南方熊楠は、心霊現象をどう考えたか? 彼の論考や雑誌記事、日記などの資料から、熊楠ほどの知性が幽霊や妖怪をどう捉えていたのかを探る。【「TRC… 熊楠と幽霊 [著]志村真幸 博物学、民俗学の知の巨人が心霊現象体験者だったと聞いても別に驚きはしない。夢で幽霊の父親に会ったり、様々な神秘体験をしたからとて疑う余地などない。人間はもともと肉体的、精神的存在であると同時に霊的存在なので、その一部が露出しただけのことで、驚く方が近代主義に毒されている。 さらに熊楠が幽体離脱したからといって騒ぐこともない。彼の魂と身体が細い紐(ひも)のようなものでつながっているということを、水木しげるはろくろ首で表現するが、意識の遊離を視覚的に描いたらこうなる。 こ
〔本文〕 一 弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。 よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり、悪事のおもはれせらるるも悪業のはからふゆゑなり。故聖人(親鸞)の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。 またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と仰せの候ひしあひひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼへす候ふ」と、申して候ひしかば、「さては、いかに親鸞がいふ
平四郎というと、禅門では、白隠禅師のもとに参禅した山梨平四郎と、のちに瑞巌寺となった円福寺の開山法心禅師、真壁の平四郎とがございます。 真壁の平四郎について調べてみました。 この真壁の平四郎については、資料が少なくよく分からないのですが、『法身覚了無一物 法心禅師真壁平四郎の生涯』という鈴木常光氏の著書があって、詳しく調べられています。 一九六九年の出版で、古い書物であります。 私も何十年も前に古本屋で入手して書架に入れていました。 平四郎は、文治五年一一八九年の生まれです。 常陸国の真壁のお生まれであります。 そこで真壁の平四郎と呼ばれます。 ただいまは茨城県桜川市となっています。 建暦元年一二一二年に平四郎は真壁城主真壁安芸守友幹の下僕となりました。 平四郎二十三歳の時であります。 平四郎が真壁氏にお仕えして二年後の健保元年一二一三年に友幹の長男が生まれました。 この子が後に真壁時幹と
住所 稲城市矢野口4015-1 訪問日 2010年6月20日 この仏像の姿(外部リンク) HANA・BIYORI・聖なる森 拝観までの道 よみうりランドへの交通は、京王線の京王よみうりランド駅、小田急線の読売ランド前駅か新百合ケ丘駅からバス。京王よみうりランド駅前からはよみうりランド直営のゴンドラ「スカイシャトル」で行くこともできる。 原則火曜日がお休み(メンテナンス期間など臨時休業あり。夏休み期間などは無休)。 よみうりランドの北の端に「聖地公園」という不思議な空間がある。遊園地の入口からジェットコースターごしに白いパゴタ(塔)が見えるが、その周辺に塔や仏像を安置するお堂がある。 入口はアシカショーの横手。 当然のことながらほとんどの来園者はアトラクションを楽しむために来ているので、この公園まで足を運ぶ人は少ない。ジェットコースターのコースの脇やゴンドラの下の何となく寂しい小道をどんどん
大利根町(現加須市)の星福寺にある「十三仏板碑」の虚空蔵菩薩の脇侍は「日天」「月天」となっているが、一般的に虚空蔵菩薩の脇侍は「日天」「月天」なのか、「日光菩薩」「月光菩薩」なのかを知りたい。 以下の資料と情報を提供した。 1 図書 『大日本仏教全書 第149冊 寂照堂谷響集』(仏書刊行会編纂 名著普及会 1983) p477「明星天子」の項に「明星ハ虚空蔵ノ化身ナリ(中略)明星ハ菩薩形ニシテ中央ニ位シ。日天ト月天ハ。天子形ニシテ左右ニ位スルコト。」とあり。 『仏像ガイド 必携仏像用語事典』(三上三樹雄著 灯影舎 1979) p133-134 「三尊」に、「三尊仏の略称。中心になる主尊(中尊)と、その左右両側にある脇侍(きょうじ)とを合わせて呼ぶ名称。中尊は仏、菩薩、明王などで、(略)。薬師三尊仏では、日光・月光の二菩薩を脇侍とする。」とあり。 2 インターネット情報 《Japan Kno
【なすのせっしょうせき】 「殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほど重なり死す」と松尾芭蕉が『奥の細道』で記した那須の殺生石は、現在でも温泉地の一角にある。昆虫や小動物がそばに寄ればたちどころに死に、場合によっては人すらも命を落とすと言われた怪石である。実際には石が瘴気を発しているのではなく、付近から噴出する火山性ガス(硫化水素・亜硫酸ガス)によって死に至るのだが、目に見えないガス故に昔の人々にとってはまさに恐怖の対象であったのだろう。 この石にはあまりにも有名な伝承が残されている。“玉藻前=白面金毛九尾狐”の話である。これは室町時代頃に『御伽草子』の一編として成立、さらにさまざまに脚色されて能・人形浄瑠璃・歌舞伎などで人気を博した題材である。 久寿2年(1155年)、“化生の前”と呼ばれる下女が鳥羽法皇の院で働き始めた。下女は容姿端麗、あらゆ
玉藻前(たまものまえ)は、平安時代末期に鳥羽上皇の寵愛を受けた絶世の美女。その正体は九つの尾を持つ妖狐・九尾の狐。玉藻前にまつわる岡山県真庭市の化生寺を訪ねました。 手塚治虫『百物語』の玉藻前 私が玉藻前を知ったのは、手塚治虫の『百物語』でした。手塚治虫は生涯で3度ゲーテの『ファウスト』をマンガ化していて、その一つが『百物語』です。 主人公・不破臼人(ふわうすと)が悪魔との契約で手に入れたいと願う美女が玉藻前でした。マンガだけでなく昔から歌舞伎、浄瑠璃、小説などでひっぱりだこの人気悪女(?)ですよ。 毒石・殺生石に変化 鳥羽上皇をたぶらかし宮中から脱走したものの、都の軍隊と戦いに敗れて殺生石に変化した玉藻前。殺生石に近づく人間や動物はその毒気にやられてバタバタと倒れました。そして毒石・殺生石を調伏するために使わされた名僧・玄翁(げんのう)和尚。 石は砕けて飛び散った 玄翁和尚が呪文とともに
鎖国中の江戸時代に輸入雑貨屋が存在した 江戸時代は鎖国していたというが、長崎におけるオランダや中国(明→清)、釜山における朝鮮とは、かなりの大規模な交易をしている。だから、さまざまな舶来品が国内に流れ込んできており、お金さえ出せばそれらを手に入れることができた。 なんと、唐物屋といわれる、いわゆる輸入雑貨屋も存在したのである。『摂津名所図絵』(寛政八~十年・一七九六~九八)には、大坂の唐物屋の店内が描かれている。それを見ると、西洋の椅子やワイングラス、中国製の壺、孔雀の羽などが所狭しと並んでいるし、客寄せのためエレキテル(オランダの医療器具)の実験がおこなわれている。 また、寛政の三美人など美人画で有名な喜多川歌麿には「俗ニ云いうばくれん」と題した作品がある。その女性は、袖をまくり上げて二の腕をあらわにし、左手でむんずと蟹を手づかみにし、右手でワイングラスを持って酒を飲んでいる。そんな姿が
それは今から四百年以上も昔のことです。 秋田から来た真面目な青年「佐助」は府中(石岡)の国分寺の薬師堂の門前で商いをしていました。そしてある時、「コマ売りの佐助が夜更けになると、国分寺の仁王門で何かやってるぞ」といううわさが府中の商人の間でささやかれ始めたのです。 佐助は、いつも仁王門左右に置かれている呵吽一対の仁王様が、カッと目を見開き睨みつけた表情の奥に何かとてつもない力を感じていました。仁王様の身の丈はおよそ六メートル。佐助はこの仁王門のどこかに、かつて常陸国を治めていた大掾氏の秘宝のありかが、梵字で記されていると聞いていました。しかし、それを知っているのは、すでに滅ぼされた大掾氏と薬師堂の和尚だけだったのです。 ある夜、コマ売りの佐助はこの梵字を写しているところを和尚に見つかってしまいました。そして「あっ!」と声をあげてその場を立ち去り逃げていったのです。その後、佐助の姿を見た者は
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