池内恵(いけうち さとし 東京大学准教授)が、中東情勢とイスラーム教やその思想について、日々少しずつ解説します。有用な情報源や、助けになる解説を見つけたらリンクを張って案内したり、これまでに書いてきた論文や著書の「さわり」の部分なども紹介したりしていきます。
池内恵(いけうち さとし 東京大学准教授)が、中東情勢とイスラーム教やその思想について、日々少しずつ解説します。有用な情報源や、助けになる解説を見つけたらリンクを張って案内したり、これまでに書いてきた論文や著書の「さわり」の部分なども紹介したりしていきます。
何もすることがない。卒業論文を提出した今となっては、差し当たっての目標というものがない。思えば、9月から12月の第一週までは苦しかったけれども、それなりに充実した日々を送っていたのではないかと思う。僕が書いた論文(所詮、文系の学部生が書いたお粗末なものだ)が、どのような評価を与えられるのか、少し気になる。テーマは、大学生の貧困を取り上げた。教育社会学の分野では、階層と学力との関係や、階層と社会的地位の関係といったものがかれこれ20年前近くから指摘されており、その代表的な研究者に苅谷剛彦や本田由紀なんかがいる。例えば、社会的地位が高い家庭や高学歴の家庭に生まれ育った子どもは、社会的地位も学歴も高くなるということが指摘されてきたわけだ。裏を返せば、貧乏の家庭に生まれた子どもは、その後の生活において、貧乏から抜け出すことは難しいということが言えるのかもしれない。代表的な本と言えば(前にも紹介した
学校教育を巡るいじめ、不登校、体罰、学級崩壊などの諸問題についての議論の中で、ごくごく当たり前に自明視されている存在「学級」とはそもそも何であるのか、ということを、主にその成立の歴史を紐解くことで、「学級」が近代イギリスに誕生し、日本で独自の「学級」が形成されてきており、その発展の過程が現代の学級を巡る諸問題の根源となっていることを明らかにした、非常に面白い一冊。 ここでは同書から、「学級」の誕生史を簡単に紹介してみる。 一九世紀に入るまで、生徒を年齢や能力で分け、一つの部屋に区切り、一斉に教授する「学級」は存在しなかった。修道院や民家など学校全体が一つの部屋や場所で、生徒は年齢や能力に関係なく集まり、教師はそこで一人一人の生徒に個別に教授を行う。 一七九八年、ロンドンにJ・ランカスターというクエーカー教徒の青年が貧民街の子どもたち向けに学校を開設、面倒見が良いという評判で、多くの子どもた
京都旭丘中学事件 京都旭丘中学事件(きょうとあさひがおかちゅうがくじけん)は、1953年4月29日から1954年6月1日にかけて発生した京都市立旭丘中学校の教育方針を巡る保守派と進歩派の教員・父母による対立事件である。 概要[編集] 事件当時、旭丘中の教職員の間では日教組組織率が高く、2割近くを占めていた(当時の全国平均の組織率は約2%だった)。旭丘中で行われる教育はいわゆる平和教育(反対派からは偏向教育と呼称される、左派系の教育方針)を熱心に行っており、「アカ」という風評があった。校内で革命歌や赤旗を強要し、全関西平和まつりに生徒を引率するなどの行動があった。旭丘中の校区には西陣織関連産業に従事する労働者階級の家庭が多く含まれており、労働者階級の肩を持つ方向性の教育方針を受け入れる家庭の割合が通常の校区と比べて多くなりやすいという特徴があった。 1953年、京都市教育委員会は翌年の京都市
経営力がまぶしい日本の市町村50選(21) 人口約12万人をコンスタントに維持している静岡県掛川市。今では「健康医療日本一・環境日本一・市民活動日本一」を市のスローガンにするほど活気ある町だが、三十数年前までは貧乏自治体で「落ちこぼれの掛川」と言われていた。 当時は新幹線の駅も高速のインターチェンジもない単なる通過点だったため、産業や人口の空洞化が進んでいた。 「落ちこぼれの掛川」に30億円もの市民募金が集まった理由 しかしながら、一人の市長の登場で町が一変することになる。財政力指数注が当時は0.6程度だったのが、平成21年度(2009年)には1.03まで上がり、普通交付税が不要の自治体にまで財政が健全化されたのである。 掛川市の転機は、1977年に榛村純一氏が市長になった頃にさかのぼる。結局、榛村氏は7期28年間にわたり市長を務めることになるが、初年度に250回も市民対話集会を開催して市
全裸マンことおだきんの子育て数学教育。学校教育で数学教わる前に、(いちおその筋では名が通っていてCERNとかもいったりいかなかったりしてる素粒子だか原子うんたらだかの研究してる学者旅烏渡世人な)おだきんが自ら子供たちに数学、あるいは論理的思考の基本的なところや図形といった概念を叩きこんでいくの巻 (( ノ゚Д゚)<ハイリハイリフレ背理法ー ☆-(ノ゚Д゚)八(゚Д゚ )ノイエーイ) こういう「暗記でもなくちゃんと基礎から考えて習得していく」系の数学の本て「数の悪魔」をちょっとみて放り出してたんだけど、おだきんのやり方はぢっくりと子どもたちに向き合っててウラヤマシスなぁ。。とか思ったり 続きを読む
m_um_u @m_um_u お師匠だったらこういうときどうしたかなぁ、とぼけーっと あの人はずーっとニコニコ本読んでるか考えてるかしてる人で、それ自体が悦びって様子が部屋をみても伝わってきてた。若手のどうでもいい研究者と違って、自分のものは二の次な、部屋中本と史料でまみれてて、食うや食わずで愉しんでた 2011-04-25 20:53:25 m_um_u @m_um_u 若い頃はこわかったってきいたから、その殺気みたいなのを感じるように、好々爺になってからもその背後で「敢えていわないようにすんドめした言葉」を感じ取るように、そこに敢えて自分が踏み込んでいけるように対話した。一回一回の面談が仕合いみたいだった 2011-04-25 20:54:35
m_um_u @m_um_u このへんは理はあるんだけど QT liliput: 結論から言うと大学院生には一人でも食っていける能力を身につけさせるしかないと思うの。これなら大学院教育の理念にも反しないし。大学院卒業した人間ってきっと何らかのスペシャリストなんでしょ?ならそのスペシャルな能力でメシくらい喰えな 2011-10-28 16:35:50 m_um_u @m_um_u 「研究者と教育者は別」の部分だと「本来もっとも想像力と創造力に富んでいると思われる若手研究者は研究に重点させるべき。対して経験や学識は詰んでいるが独創性の面では目づまりしたお年寄りは教育に重点スべき」というところは持論。リソースの選択と集中だよ 2011-10-28 16:39:09
アメリカの大学院で、「Professional methods」という授業を取ったことがある。言語学の専門家として食っていくためのあれやこれやをひたすら教わるクラスである。学会での発表の仕方、ジャーナルペーパーの書き方、CVの書き方、就職活動などなどのトピックをこなして、「教授法」が取り上げられた。このエントリで取り上げるのは、「教授法」の回に先生が配った「教師の心得」である。 以下、その一部を日本語で紹介する。 君が教えようとしていることは、「とても大切でとても面白い」ことを決して忘れないようにしなさい。また、それを学生に伝えることも忘れてはいけない。 君は、君のクラスにいる学生よりも賢いわけではない。学生よりも「いいひと」なわけでもない。君は、たまたま学生がまだ持ち合わせていない情報をいくらか知っているだけだ。そして学生たちは、君がまだ知らない情報を山ほど知っている。 教師として、君は
この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2019年1月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2019年1月) 出典検索?: "一般教育と専門教育" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL この項目では、日本の高等教育における一般教育(いっぱんきょういく)と専門教育(せんもんきょういく)[1]の区分について述べる。 なお、ドイツやアメリカの教育制度の分析では一般教育と専門職業教育という対置が行われることがある[2]。 概要[編集] 日本の高等教育における一般教育もアメリカのgeneral educationに由来するが、本来、general educationは内容的に
寺脇 研(てらわき けん、1952年7月13日 - )は、日本の元文部官僚。学校法人瓜生山学園京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)教授、学校法人瓜生山学園理事。学校法人コリア国際学園理事。映画評論家。 官僚時代にはゆとり教育の広報を担った、ゆとり教育推進者の一人。福岡県福岡市出身。 経歴・人物[編集] 福岡出身。当時は九州大学医学部講師で後に鹿児島大学医学部小児科教室教授となる医師・寺脇保[1]の長男として生まれる[2]。母方の祖父も小児科学の医師で九州大学医学部長や九州大学総長、久留米大学学長等を務め勲一等を受けた遠城寺宗徳[1]。遠城寺は父・保の師でもある。10歳まで福岡で過ごした後、父の鹿児島大学医学部への赴任に伴い鹿児島県に転居[3]。 1965年、ラ・サール中学校に首席合格[1](中学の同級生に俳優・タレントの池畑慎之介(ピーター)がいた)。1971年にラ・サール高校を卒業[4]。
「ヘドがでるけどナ」と書いた学生 情報が記事内で不足していたためかもわかりませんが、あちこちで誤読や誤解が見られる気がするので、前記事の補足がてら「授業のやり方について」「学生への対応と、ブログに書くことについて」「ジェンダー及び性教育について」の三項目で、事実と今自分の感じていることを書いておきたいと思います。できれば前記事のコメントも参照して下さい。 授業のやり方について 講義は半期(15講)。2クラス(2コマ)もっています。選択授業です。年によってまちまちですが1クラスは80〜100人前後。学部や科や学年はバラバラ。ドラマや映画を見て学生に感想や意見などのコメント(ミニレポートと呼ぶ)を書かせ、その中からいろいろなタイプの意見を幅広くピックアップし、翌週読み上げながら私のコメントをつけていく、という形式を採っています。クラスごとではなく2クラス分は最初から混ぜて選びます。 学生の名は
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日本シュタイナー幼児教育協会主催 シュタイナー幼児教育教員養成講座 [教員養成の理念] ──芸術としての教育── 日本にシュタイナー教育が紹介されてから約30年、この 間に数多くの講座や講演会、あるいは教員養成コースが開 催されてきました。私たちはヨーロッパを中心とする先達の 知恵と経験に学び、そこから数多くの人々の努力によって、 現実にいくつものシュタイナー幼稚園、シュタイナー学校が 誕生しました。これまでの30年は、「日本のシュタイナー教 育発展史」における第1期といえると思います。 私たちが今、日本シュタイナー幼児教育協会としてスター トさせる教員養成講座は、いわばこれまで日本で築かれて きたシュタイナー教育の基盤を踏まえ、さらに新しい第2期 に向けての人材育成に寄与することを目指しています。 これからの教員養成の理念を一言でいうとすれば、それ は「芸術としての教育」ということです
【このコーナーでの学習のねらい】 キリスト教カトリックの支配下にあったヨーロッパ中世の教育実践とはどのようなものであったのか,そしてそのことが現代の教育にどのような影響を与え,どのような示唆を与えているのかを理解する。 【学び方】 @学習シートの項目に沿って,ヨーロッパ中世の教育の概要について整理する。 A日本の教育基本法を参照して,日本の学校教育において,教育と宗教との関係がどのように規定されているかを調べる。 1.中世の教育 西ローマ帝国が滅亡した後、ヨーロッパではカトリック教会が大きな力をもつようになる。すなわち,中世ヨーロッパ社会は,キリスト教が人間形成や学問研究に対して大きな支配権を握っていた時代である。近代における公教育制度の成立は,人々を誰が支配するのかを巡って教会から国家へ支配権が移っていくプロセスでもあり,教会が握っていた人々への支配権が国家権力へと移され
このたび、放送大学を卒業しました(教養学部社会と産業コース)。大学を中退してから十数年、やっと「学士(教養)」の資格が認定されました。これで、マンガ家こうの史代さん(平成13年卒)の後輩になりました。 例年NHKホールで開かれる卒業式が今年は中止となり、各学習センターで卒業証書・学位記授与式が開かれましたが、その後の懇親会で他の卒業生の方の話を聞いて「社会人になってからの大学というのは本当に価値がある」と感じました。普通の大学(いわば就職予備校として単位・資格を揃えるのが目的)とは異なり、学びたい人が学ぶ大学を卒業できたことは自分にとっても嬉しいことです。 さらに、今年もまた選科履修生として再入学しました。というわけで生涯学習と放送大学について思うところなど。 放送大学とは 放送大学 |1科目から学べる遠隔教育の大学 放送大学は、テレビやラジオで授業が受けられる公開の遠隔教育大学(現在の英
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