日本統治時代の台湾における原住民の言語調査と教科書編纂 日本統治期、台湾総督府は被植民者に日本語教育をほどこし、彼らの言語・文化を日本に同化させることを目指しました。しかし、同時に、日本の植民地統治で は、末端の官吏に多くの日本人が当てられたことが一つの特色であったことが関係していると思われますが、現場の下級官吏にも現地語の習得が求められていま した。 このため、総督府は、まず現地の諸言語の調査研究を実施し、それとほぼ平行して現地に赴任する官吏、警察官のための現地語教科書の編纂を 試みました。また、今日で言うところの語学検定試験に当たる制度を設け、試験の合格者には、級を与え、通訳などの仕事に当たらせました。 中で も、総督府は、バラエティに富む原住民の諸言語について、当初効率的な調査、教科書編纂を目指し、あらゆる原住民語の調査に対して統一した言語(語彙、例 文)採集リストを作成し、それを全
台湾の鉄道管理局は7日、昭和天皇が皇太子時代の1923年、台湾訪問の際に利用した貴賓車「天皇花車」など日本統治時代の木造の鉄道車両2両を公開した。 公開は2004年、09年に次いで3回目。1887年の台湾最初の鉄道着工記念日(6月9日)を祝う行事として、車両を保管する北部・基隆市の特別車庫で行われた。 天皇花車は1912年に完成。もう一つの車両は1904年に完成した「総督花車」で、当時の台湾総督が巡視の際に利用した。いずれもレールを走ることはできなくなったが、内装は今も使えそうなほど良い保存状態だ。 特に天皇花車は、内装に当時の著名画家、川端玉章(1842~1913年)の蒔絵やステンドグラス、彫刻などを用いた豪華なつくりで、見学に訪れた鉄道ファンらが熱心に見入っていた。(共同)
伊能 嘉矩(いのう かのり、慶応3年5月9日(1867年6月11日)[1] - 大正14年(1925年)9月30日[1])は、日本の人類学者・民俗学者。明治時代においていち早く人類学を学び、特に台湾原住民の研究では膨大な成果を残した。郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者と言われた。梅陰[2]という筆名での著作も多数ある。 来歴[編集] 慶応3年(1867年)、横田村(現在の岩手県遠野市東舘町)に生まれる[1]。父母を早くに亡くしたが、両祖父から漢学・国学・国史などを学び、若くして学才を発揮する。明治18年(1885年)、上京して斯文黌に学ぶ。自由民権運動にも参加し、岩手県に戻り入学した岩手師範学校では寄宿舎騒動の首謀者とみなされ放校処分を受ける。1889年3月、再び上京[1]。成達書院で漢学と歴史を学びながら[1]、東京毎日新聞社に入社[1]。その後、
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