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姫路に関するnoto92のブックマーク (6)

  • 変形し「抜けない杭200本」、駅チカ開発中止 : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    兵庫県姫路市のJR姫路駅近くで行われていた市有地の整備事業が、思わぬ形で中止となった。 半世紀前の高層ビルの基礎工事で打ち込んだ杭(くい)が変形し、容易に抜けなくなったためだ。「駅チカ」の一等地だが、このままではビルなどを建てるのは困難で、市は跡地利用に苦慮している。 1966年完成の高尾ビル(10階建て)で、3、4階部分が、70年代まで姫路市内を走っていた「姫路モノレール」の大将軍駅として利用。モノレールの運休(74年)、廃止(79年)を経て、賃貸住宅などとしても使われたが、老朽化のため、市が2016年度から5億円近くかけて解体工事を行っていた。 ビルを撤去後、地中に埋まっている基礎部分のH形鋼の杭(長さ約16メートル)を抜こうとした際、機械が破損。杭を振動させて引き抜く特別の工法で抜いたところ、先端部分が変形していたことが判明した。H形鋼は約200残っており、市は「振動を伴う工法を使

    変形し「抜けない杭200本」、駅チカ開発中止 : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
    noto92
    noto92 2017/11/22
    悔いの残らないように。
  • 神戸新聞NEXT|社会|姫路市が中枢拠点都市 総務相モデル指定 播磨15市町と

  • 播磨道交法 - Wikipedia

    播磨道交法(はりまどうこうほう)とは、兵庫県播磨地域における道路交通マナーおよび道路交通ローカルルールを、神戸新聞社が自紙読者投稿欄の連載上で分析したうえで法律的文体でまとめ、『神戸新聞』に掲載した文章である。また、そのローカルルール自体を指す名称でもあり、播磨ルールや姫路ルールとも呼ばれる。 概要[編集] 2003年7月上旬、『神戸新聞』の読者参加型連載「トークステージ」において兵庫県播州地方における道路交通マナー 特に道路交通法を軽視してローカルルールを優先させる傾向があることが話題になり、これに関する投稿が神戸新聞社に多数寄せられた。神戸新聞社の編集部がこれを「道路交通法」をもじったような法律的文体にまとめ、2003年7月8日に“播磨道交法”と題して同紙朝刊へ掲載したものである[1]。 内容[編集] 附則を含めて全3章10条からなる、法律的文体の文章である。 第一章は交差点の通行に関

  • 第24回 姫路城昭和の大修理―素屋根工事|鹿島の軌跡|鹿島建設株式会社

    第24回 姫路城昭和の大修理―素屋根工事 国宝・姫路城は、1993年に法隆寺地域の仏教建造物と共に日初の世界文化遺産として登録された。この美しい城を守ろうとする人々の努力によって、築城から400年経った今もその堂々とした姿を見せている姫路城であるが、昭和初期には大雨によって石垣が崩れ、城の大天守は傾きかけ、見る影もなかったのである。今から50年ほど前に行われた姫路城の昭和の大修理に鹿島が携わったことを知っている、あるいは覚えている人はどのくらいいるだろうか。 400年前に築城 鎌倉時代末期の元弘3(1333)年、播磨の豪族・赤松則村が砦を築いたことがその起源と言われる姫路城に、城らしきものが築かれたのは正平元(1346)年のことであった。築城したのは則村の次男・貞則。初代姫路城主といわれる所以である。その後福岡黒田氏の祖・小寺重隆が天文24(1555)年から永禄4(1561)年の間に築い

    noto92
    noto92 2011/11/14
    昭和の大修理
  • 兵庫人 挑む

    「この城とかかわらせてもらって、幸せやったと思います」と語る西村〓一さん=姫路市町、姫路城(撮影・岡好太郎) 今年は、国宝・姫路城が法隆寺とともに、日で初めて世界文化遺産に登録されて丸十五年となる。 木造建築では屈指の規模を誇る。しかし、道のりは決して平坦(へいたん)なものではなかった。幾多の苦難で荒廃した城を救ったのは、太平洋戦争を挟んで取り組まれた昭和の修復工事。特に大天守など二十二棟を全面解体した「昭和の大修理」(一九五六―六四年)は未曾有の難工事だった。 「池田輝政に人生をささげたようなもんや。責任を取ってもらわんとな」 元文部技官の西村〓一(よしかず)(76)は、大天守へと続く石段を上りながら、豪快に笑う。 二十代半ばで姫路に来た。「昭和の大修理」に携わった後も住みつき、半世紀にわたり城を見守ってきた。城とは「掛け替えのないもの」。いとおしさすら、感じる。 五七年一月。大天

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    noto92 2011/11/14
    白鷺城
  • 姫路城 - Wikipedia

    南北朝時代・戦国時代[編集] 1333年(元弘3年)、元弘の乱で護良親王の令旨を奉じて播磨国守護の赤松則村が挙兵し、上洛途中の姫山にあった称名寺[37][注釈 7]を元に縄張りし、一族の小寺頼季に守備を命じた[38][39]。南北朝の争乱で足利尊氏に呼応した則村が再度挙兵し、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)、次男の赤松貞範が称名寺を麓に移し姫山に築城し姫山城とした[40][41][42]。1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)、貞範が新たに庄山城(しょうやまじょう、現在の飾東町にあった)を築城して拠地を移すと、再び小寺頼季が城代になって以後は小寺氏代々が城代を務める[43]。 1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱を起こした赤松満祐・教康父子を山名宗全らが討伐軍を挙げ、赤松父子は城山城で自害し赤松氏は断絶し、赤松満祐に属していた城代の小寺職治は討死した。その後、山名氏が播磨国

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