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ブックマーク / nakaii.hatenablog.com (2)

  • 「移人称小説」と「いぬのせなか座」 - 翻訳論その他

    「移人称小説」というレッテルがピンと来なくて。命名したのは渡部直己だが、次のように書いている。 ここにひとつ、昨今の小説風土の一部にかかってなかなか興味深い(中略)現象がある。/一種の「ブーム」のごとく、キャリアも実力も異にする現代作家たちによる作品の数々が、その中枢をひとしく特異な焦点移動に委ねるという事態がそれである。 (渡部直己「移人称小説論」『小説技術論』、強調は原文では傍点、以下同様) 「語りの焦点が、一人称と三人称とのあいだを移動し往復する点」が「特異」なのだというが、「焦点」という概念と「人称」という概念がごちゃまぜになっていて、ちゃんと理解しようとすればするほど、言葉の不透明さが増すようだ。 渡部の論では、「移人称小説」がさらに細かく「越境系」と「狭窄系」に分けられる。たとえば岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』に収められた2つの作品のうち、「わたしの場所の複

    「移人称小説」と「いぬのせなか座」 - 翻訳論その他
    nuba
    nuba 2016/01/07
  • 川端康成の嘘 - 翻訳論その他

    川端康成が自身の翻訳観・日語観を披歴した文章に「鳶の舞う西空」という随筆があって、精読したことがある。「『源氏物語』の作者に『紫式部日記』があった方がよいのか、なかった方がよいのか。なくてもよかった、むしろなければよかったと、私は思う時もある」という書き出しのこの随筆は、最初のほう「源氏物語」の英訳や日古典の現代語訳について取り留めのない話をしているけれど、半ばあたりでおもむろに「川嶋至」という名前を出し、そこから先、この人への反論となる。どうやら翻訳の話は枕にすぎなくて、反論が題であるようだ。川嶋至は知らない名前だったので、精読の一環として軽い気持ちで調べ始めたら、とまらなくなった。それで結局、国会図書館まで行くはめになった。もう十年くらい前の話になるけれども。 いま小谷野敦『川端康成伝 双面の人』を読んでいるのだが、読み始めてすぐ、この人の名前が出てきた。引用させてもらう。「川端

    川端康成の嘘 - 翻訳論その他
    nuba
    nuba 2013/09/07
    ho-
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