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*_A:東浩紀に関するo_keke_nigelのブックマーク (5)

  • 2008-11-26

    nitarさんによる聴講メモ、東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第6回(11/14)より抜粋。斎藤純一さんの『公共性』を引用しながらの講義。 次のページに、世界喪失とは生命の配慮であるとかそういうことが書いてある P48 つまり近代の人間が「世界への配慮」の喪失と引き換えに手に入れたのは、 厳密にいえば「自己への配慮」ではなく、万人にとって同一である「生命の配慮」なのである。 P49 共通世界をめぐる言説の空間としての公共性からは、絶対的な真理は排されている 共通の世界について考えるのは、無限に続く議論空間 常に何かの異議申し立てが可能 別の見方を全部許容できる空間 僕はブログでよく叩かれている 雑誌をあまり読まないのでブログで批判されないと気付かない 『リアルのゆくえ』 南京大虐殺について僕はあると思っている しかしあるという奴とないという奴がいてこれを調整するのは不可能 いく

    2008-11-26
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/06/17
    「本当に大切なことには理由があってはいけない関係」で。斎藤純一氏「公共性」より引用「『人間の条件』のアーレントの念頭にあるのは、全体主義というよりも大衆社会・消費社会のコンフォーミズムである。」
  • 「政治」を「する」ことと「政治」で「ある」こと - 過ぎ去ろうとしない過去

    東浩紀のカール・シュミット読解は誤読が多いとずっと思っていた。 例によって速記者が正しければだが、 http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081205/p1 カール・シュミット『政治的なものの概念』を何回か取り上げた 何を言っているか 政治は友と敵を分けることだ 友と敵を分けることが政治 誰かが自分の存在を抹殺するかもしれないから相手を抹殺 精神的な意味でも隠喩でもない 「政治は友と敵を分けることだ」とはシュミットは言っていない。 政治的なものは、特有の意味で、政治的な行動がすべてそこに帰着しうるような、それに固有の究極的な区別のなかに求められなければいけない。 (『政治的なものの概念』p14) カール・シュミットにとって「政治」とは、「道徳」や「経済」とははっきりと分けられなければいけない、「友」と「敵」の区別において見出されるものなのである。それは具体的・存在論的

    「政治」を「する」ことと「政治」で「ある」こと - 過ぎ去ろうとしない過去
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    o_keke_nigel 2009/06/16
    「『はてサ』が『観客席はない』と言うとき、たいていの場合は、『観客席から降りて闘技場に来い』という意味ではなく、『あのー、それ普通に闘技場の中なんですけど』という意味で使っていると考えてもらってよい」
  • 東浩紀の渦状言論: 歴史認識問題についていくつか

    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2008/12/02
    サヨク系の政治性への違和感を非政治的に表明しようとすること自体がメタ的に政治性を持つ難しさ。ただこの手の議論でかなわんのはサヨでもウヨでもなくシニシズムの中でモフモフしてる人かもしれない。
  • お盆休みの課題 - スマイル・トレーニング・センター

    ■[雑記]お盆休みの課題 課題: 1970年代以降の日の思想あるいは作品(ジャンル、メディアは問わない)をひとつ取り上げ、日語で考え発表することの意味を軸として、作家論あるいは作品論を展開せよ。 課題説明: 1990年代以降、思想の言語はほぼ英語に統一された。他方で日では、1995年以降、社会の構造が大きく変わり、思想地図の再編を迫られた。結果として、いま日の批評的な言説は、国内独自の発展を遂げ、国外との連携を急速に失い始めているように思われる。たとえば、誌編集委員の東浩紀と北田暁大の仕事には、1995年以降の日の言論界に無知な、国外の読者に紹介することが難しいものが多数含まれている。 その閉鎖性は大きな問題だが、しかし逆に、「グローバル」なパラダイムが必ずしも思想的な強度を保証するものでもない。もしかしたら私たちは、いま、たいへん思想的に豊かなのだが、しかし、ただ日語で書か

    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/08/15
    「渦状言論」(東浩紀氏)の課題「日本語で表現することの意味」への回答としてこうの史代氏「夕凪の街桜の国」をテーマに。「被爆体験」に対する従来のパラダイムを「半歩踏み出す」ことの意味。
  • 2007-02-09

    昨日、白ばらセミナーで、今川晃氏の『市民参加のまちづくり』の話を聞いたのですが、二時間超でしたが面白かった。僕より年輩の方も多かったのですが、熱心に聴き入っていました。「コミュニティからまちつくり」の要は水平的関係の町内会、自治会(NPOも取り込んだ)の回路と地方自治体相互の横の繋がりと、行政と町内会、自治会(NPOなど)縦糸、横糸を織りなして協働する「まちつくり」を行おうとするわけです。最後に質疑応答でお年寄りが「コミュニティ」という概念と現に我々が暮らしている近隣の「町内」とどう違うのか、のような質問をしていたが、僕は凄く面白い指摘だと思いました。恐らく、郊外社会の誕生と人工物の共同体のような「コミュニティ」は随分ズレがあると思う。そんなことを思っていたら昨日のエントリーで偽日記さんが『東京から考える』(東浩紀・北田暁大)について言及していた。引用コピペしてみる。 動物化し、人間工学的

    2007-02-09
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/03/27
    「人間工学的に支配された消費行動をとるヤンキーによって占められるジャスコ的郊外に抗するものとしてあげられているのが、「上流」という「共同幻想」によって支えられる、青葉台のようなシミュラークル的広告郊外
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