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2009年6月17日のブックマーク (3件)

  • 自明であること、或いはパフォーマティヴ - Living, Loving, Thinking, Again

    http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080916/p1 http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080917/1221615929 http://d.hatena.ne.jp/usoki/20080918#1221724987 「自明」であること、その「自明」を英訳せよ。 It is self-evident. それとも、 It is taken for granted. 後者の場合、I take it for granted.と変形することができる。前者の場合がコンスタティヴな響きを持ち、それに或る種の存在論的地位を与えているのに対して、後者はパフォーマティヴ性、さらには政治性を含意することになる。 何度か書いているが、人権は英語においてはhuman rightsと複数形で表記される。ということは、そこにおいては具体的な

    自明であること、或いはパフォーマティヴ - Living, Loving, Thinking, Again
  • 2008-11-26

    nitarさんによる聴講メモ、東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第6回(11/14)より抜粋。斎藤純一さんの『公共性』を引用しながらの講義。 次のページに、世界喪失とは生命の配慮であるとかそういうことが書いてある P48 つまり近代の人間が「世界への配慮」の喪失と引き換えに手に入れたのは、 厳密にいえば「自己への配慮」ではなく、万人にとって同一である「生命の配慮」なのである。 P49 共通世界をめぐる言説の空間としての公共性からは、絶対的な真理は排されている 共通の世界について考えるのは、無限に続く議論空間 常に何かの異議申し立てが可能 別の見方を全部許容できる空間 僕はブログでよく叩かれている 雑誌をあまり読まないのでブログで批判されないと気付かない 『リアルのゆくえ』 南京大虐殺について僕はあると思っている しかしあるという奴とないという奴がいてこれを調整するのは不可能 いく

    2008-11-26
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/06/17
    「本当に大切なことには理由があってはいけない関係」で。斎藤純一氏「公共性」より引用「『人間の条件』のアーレントの念頭にあるのは、全体主義というよりも大衆社会・消費社会のコンフォーミズムである。」
  • ベタがベタでなくなったとき - kom’s log

    紆余曲折して結局いまや再び「科学者の職業は真理の追究である」って言ってもいいんじゃないか、とわたしは思っている。「真理の追究」なんてこというと「まさか」という時代もありました。「科学者の職業は真理の追究である」って言うのってホントつらいというか恥ずかしいというか、アホですかバカですか、と穴に入りたくなるような気分になるけれど。 近代の文脈が見失われたらそもそも議論ってのは成り立たない。「まさか」は退行して「証拠見せろ」になるわけである。こうした状況はもう、あきれるほどあちらこちらで顕在化している。結局「真理の追究」、ベタがベタではなくなったので、普通に主張すべき内容になってしまったのである。研究の結果、かくかくしかじかなる結果でございました、と述べたときに「証拠見せろ」といわれてさんざん説明して「長すぎる、三行でわかるように」とかいわれたら、「大学で勉強しなおしてください」とでもしかいえな

    ベタがベタでなくなったとき - kom’s log
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2009/06/17
    本当に大事なことには理由があってはいけない関連「近代の文脈が見失われたらそもそも議論ってのは成り立たない。『まさか』は退行して『証拠見せろ』になるわけである。」