罵倒を芸風とかキャラクターだとして容認する場こそが問題 - ARTIFACT@ハテナ系 事実、「とめていなかった」のではなくて「これまでなぜとめられなかったのか」と考えたほうがいいかもしれません。事実をどれくらい「知って」いるか「知らない」かを基準にするのは、その主体の決定と判断によるものであると定義します。その後で、何らかのアクションを、それぞれの動機に基づいて起こすこともある。 画面の奥のやり取りで「どこまで可視化」されているか、という明確な規定と目的が、両者で可視化されておらずわからない場合、多くは事実を知ることができません。完全に知ることができるのは、明確な当事者となった場合――つまり、他者と私が「画面」ではなく「対話」として「出会った」瞬間、となります。また、「可視化されている」という事実と、「読む」という事実が揃わなければ、第三者が明確な心象や目的の明確化と納得へいたることはで