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2009年2月4日のブックマーク (2件)

  • 選択肢についてのノート - Oblivion? Oblivion!

    ひとは誰かに選択を迫られうる。しかし、選択肢を事柄に迫られるのと、他者に迫られるのでは、実はおのずと違いがある。 ひとが何者であるかを自ら示すのは、いかなる選択肢を選ぶかによってでは、実はない。ひとが、自らを何者かとしてあらわすのは、いかなる選択肢を状況の中に見出すかによってである。 だから、与えられた選択肢のなから選択した段階で、いかなる苦悩や思慮がそこに加わっていようと、わたしたちはその選択肢を提示した他者に従属しているのだ。どちらを選ぼうとも、それはある意味で選択肢の作成の時点に織り込まれている。 どんな選択肢にでも、じつは暗黙の選択がすでに書き込まれている。だから、ひとは当の意味で自らの行為を、与えられた選択肢から選ぶという形では、決定することはない。ひとが決断したのは、じつは、その選択肢のなから選択するときめたときだったのである。 たとえば完全に中性的な、きみは右に曲がるか左に

    選択肢についてのノート - Oblivion? Oblivion!
  •  普遍をいかにして実効性あるものにするか - Oblivion? Oblivion!

    外国人に対する人権意識が低下しているというニュースを読んだ。不況で余裕がなくなっているせいだ、というのはマクロにはただしい感想だろう。 ところで気になるのは、このニュースで、外国人の人権を日人と同じように守るべきだと思いますか、という問いかけがされ、それに対して否定的なこたえがかなりの量にのぼったということが報じられている。 問題はこの結果、というよりも、この応答の様式そのものにこそ著しい、とぼくはおもう。あなたは違和感を持っただろうか。実は、この応答の形式を容認した上で、外国人にも人権を認めるべきだ、と、まさしく、曖昧なリベラルな言説を発しても、しようがないのである。 ひとつめに根的に問題なのは、外国人の人権を守るべきかという問いは何重にも言葉の使い方からして逆立ちしているということだ。 人権というのは、ひとの権利、ということだ。これは、いいかえると、ひとであるかぎり、ほかに絶対にい

     普遍をいかにして実効性あるものにするか - Oblivion? Oblivion!