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ブックマーク / jouno.hatenablog.com (13)

  • 選択肢についてのノート - Oblivion? Oblivion!

    ひとは誰かに選択を迫られうる。しかし、選択肢を事柄に迫られるのと、他者に迫られるのでは、実はおのずと違いがある。 ひとが何者であるかを自ら示すのは、いかなる選択肢を選ぶかによってでは、実はない。ひとが、自らを何者かとしてあらわすのは、いかなる選択肢を状況の中に見出すかによってである。 だから、与えられた選択肢のなから選択した段階で、いかなる苦悩や思慮がそこに加わっていようと、わたしたちはその選択肢を提示した他者に従属しているのだ。どちらを選ぼうとも、それはある意味で選択肢の作成の時点に織り込まれている。 どんな選択肢にでも、じつは暗黙の選択がすでに書き込まれている。だから、ひとは当の意味で自らの行為を、与えられた選択肢から選ぶという形では、決定することはない。ひとが決断したのは、じつは、その選択肢のなから選択するときめたときだったのである。 たとえば完全に中性的な、きみは右に曲がるか左に

    選択肢についてのノート - Oblivion? Oblivion!
  •  普遍をいかにして実効性あるものにするか - Oblivion? Oblivion!

    外国人に対する人権意識が低下しているというニュースを読んだ。不況で余裕がなくなっているせいだ、というのはマクロにはただしい感想だろう。 ところで気になるのは、このニュースで、外国人の人権を日人と同じように守るべきだと思いますか、という問いかけがされ、それに対して否定的なこたえがかなりの量にのぼったということが報じられている。 問題はこの結果、というよりも、この応答の様式そのものにこそ著しい、とぼくはおもう。あなたは違和感を持っただろうか。実は、この応答の形式を容認した上で、外国人にも人権を認めるべきだ、と、まさしく、曖昧なリベラルな言説を発しても、しようがないのである。 ひとつめに根的に問題なのは、外国人の人権を守るべきかという問いは何重にも言葉の使い方からして逆立ちしているということだ。 人権というのは、ひとの権利、ということだ。これは、いいかえると、ひとであるかぎり、ほかに絶対にい

     普遍をいかにして実効性あるものにするか - Oblivion? Oblivion!
  • 相対主義 - Oblivion? Oblivion!

    http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html 最近、俗流のポストモダン的相対主義を批判するには、断固としてモダニズムでいくのもいいんだろうけど、ニーチェ的観点が有効かもしれないと思う。(それにしてもあたらしい思潮が前代の思想の内在的克服、上位互換になることを要求されず、「もうそんな時代じゃない」になってしまうのは、実に駄目なところだと思う。)通俗リベラルの抱く相対主義とは、ニーチェ的に言えば不能の表現なのだ。自らの暗黙に前提しているモラルに対して無防備な人間ほど、モラルを言揚げすることを嫌い、モラル一般を否定する。まさにそれこそが、制度としてのモラルの抑圧的機能なのだ。自然化され、モラルではないような「自然な成り行き」として提示されるものこそ、まさしく支配するモラルのなのである。そしてそれこそが現代思想の明らかにした知見であ

    相対主義 - Oblivion? Oblivion!
  • コールアンドレスポンス 一心不乱のマジレスを! 情け容赦ないマジレスを! - Oblivion? Oblivion!

    タイトルはネタです。とにかくネタだと書いておけばいいんでしょう。この行について追記あり http://d.hatena.ne.jp/bmp/20050606/1118026504 どうでもいいけど役不足じゃなくて力不足だと思う。 (追記。ああ。ごめん、訂正させてしまった。そういうつもりじゃなかったんだけど、……ま、いいか) それはともかくこの件で真性引き篭もりさんと徳保さんの件についていうと、ぼくは真性引き篭もりさんはすごいよなあ、うまいよなあ、ネタってこういうんだよなあ、と思っているし、徳保さんは相変わらず相手の文章が読めていなさ過ぎる、ひでえ誤読で、不毛の限りだ、と思っています。 まじめとふまじめというような、ぼくがまったく取っていない枠組みに嵌めようという語りが見られるので、ここははっきりさせておきたい。 徳保さんの「マジレス」が不毛だったのはネタであることを理解できずに、しかも相手

    コールアンドレスポンス 一心不乱のマジレスを! 情け容赦ないマジレスを! - Oblivion? Oblivion!
  • 儀礼的無関心について - Oblivion? Oblivion!

    (追記。やや考え直した。のざきさんのテキストを読んだことが大きい。リンクの仕方が失礼な場合もリンクされたことへの反応が失礼な場合もあるだろうということは、リンクしたほうかされたほうかというのは事の核心には関係ない、という気がしてきた。また、失礼かどうかというのは個別のケースで議論すべきことで一般論にするのがおかしい。それになにより、心無いリンクは止めようと「提言すること」自体は、すでにマナーではなく規制の領域に明確に入っている。儀礼は運動のようにして提言されるようなものではないだろう。マナーはリンクするほうが内心で検討することで、リンクされたほうが相手に向かっていうようなことではない。他者に向かって議論する論拠として使うことを想定している時点ですでにそれは政治的な論理なのであり、権利や禁止の問題である。それに、やはりこれはもとの下の文章でも大きいのだが、例え話を使って、心情への配慮を訴える

    儀礼的無関心について - Oblivion? Oblivion!
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/04/13
    「マナーとしてしてはいけないというのと、権利として、ルールとしてしていい、いけないというのはどう違うのか。ここが判然としていないかぎり、マナーの名でルールが密輸されてしまう。」
  • はてなと村関係 - Oblivion? Oblivion!

    id:nobodyさんとかid:sugioさんとか。とりあえず、近所にいるようでよかった。よかったというか、まあそうだろうなと。だからといって日記の内容をどうこうするわけでもないし。 こういう関心空間的つながりは、興味関心の方向の共通性なので、かならずしも、馴れ合い的なコミュニケーションを意味するわけではないと思う。というか、揶揄されてもひらきなおってユーモアにしてしまうあたりはなかなか健康的な感じがする。関係を意識化することは、そこに境界とか排他性が生まれない限りはいいことだ。問題なのは、「仲間内」をつくりあげて、擬似的な主体として擬人化する語り口が発生してしまうことで、警戒すべきことがあるとすればそういうことだとおもう。じっさい、べつに「我々」意識なんて微塵もないと思うし。身内意識を微塵ももたずに濃密な交流をすることは可能だし時には必要でもある。相手を予期してしまわないこと。他者を他者

    はてなと村関係 - Oblivion? Oblivion!
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/04/13
    「相手を予期してしまわないこと。他者を他者として成立させるということは、他者につねに不可解な部分を予期しつづけることだろう。」あたまわるい、とかいうフレーズがイクナイのはだからだ、と思った。
  • 再追記 - Oblivion? Oblivion!

    文章をちゃんと読めば誰にもわかると思うけれど、いちおう。 ぼくは悪ふざけがいけないなんて話はしてないし、思ってもいない。 まじめでなきゃいけない、なんて話はもっとしていない。 それこそ、自分の論旨に都合のいいように印象操作した「お話」です。 あと、いい加減飽きたけれど、ぼくがはてなを特別視しているようなotsuneさんのしつこい言及は、完全な思い込みで、一箇所もそんな記述、またはそれを思わせる記述はないことも、できれば実地にたしかめてください。 あと石橋に関する事実認識では確かに微妙で、ぼくはかれはたしかにしばしば(狭い意味での、つまり「内輪ネタ」という装いの芸ではなくて当に内輪にしかわからない)内輪ネタをやると思うけど、それはあくまでサービスで、それが理解できないとそのシーンがつまらなくなる、ということにはならないようなケアを、だいたいの場合は、していると思う。ただそれで踏み外してしま

    再追記 - Oblivion? Oblivion!
  • 下への追記。 - Oblivion? Oblivion!

    簡単に言うと「笑いは狭いほど面白い」といった松人志にあこがれるのも、内輪ウケ芸の開祖というべきとんねるずの石橋にあこがれるのも、シュールなノリのラーメンズにあこがれるのも、jounoさんの意見としては「趣味じゃないから、はてなダイアリーではやめてほしい」ということだと解釈した。 徹頭徹尾間違い。やめてほしいということも、趣味という話も、まして、はてなダイアリーで、という話も、一箇所たりともしていない。これは気で、ひどい要約。 そんなことをいう筈がないじゃないですか。僕にどうしてあなたになにかをするなと命令する権利があるんですか。そんなくだらない越権を主張する痛いひとのように見せかけるのが狙いなんでしょうか。 ぼくは、あなたに一方的に決め付けられたから、それは違う、といっているんです。どうして、まるでぼくがあなたに何かを押し付けているような、真逆の話になるんです。 また、僕はこの三人の芸

    下への追記。 - Oblivion? Oblivion!
  • ネタとかマジレスとか野暮とか - Oblivion? Oblivion!

    http://d.hatena.ne.jp/otsune/20050604/p2 バトルではありません。すくなくてもここではまだ意見の対立なんてない。ぼくは知りたいから尋ねただけだし、かれは答えたくなければ断ればそれですむだけ。言葉が足りないのはそれ自体は別に悪いことではない。しかし、言葉が足りないこと自体に何かいわくありげな意味を見出そうとするのは間違っている。言挙げすることによって表現しようとしたことが失われたりはしない。わかりやすい知的な整理でやめるから何か違うということになるのであって、その違うということを大切にしてさらに続ければ、少なくとも、何でないかはわかる。それは、最初漠然とイメージでこんな感じかなあと思っている時点よりも、何倍もまし。もちろんひとは議論する義務はない。ただ、「無粋なマジレス」はことを明らかにする効果がないというのは間違い、ということ。ついでにいえば、芸事なら

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  • 歴史と謝罪 - Oblivion? Oblivion!

    どうも違和感を感じるのは、謝罪が求められているものなのか、ということ。 たとえてみれば、牛を要求されているのに馬を与えて、馬をいくら与えても牛を要求されるから、また馬を与えて、そしてまた馬を与えて、そして「普通は一頭で満足するのが標準だ、何頭やったと思ってるんだ、不当だ!」と怒っているように見える。根的にすれ違っている。そして、欲しいのは牛で、馬は要らない、といわれると、「返さず受け取ったじゃないか、何だかんだいって欲しいんだろう?」あるいは「売って牛を買えばいいじゃないか」と返答してるような。そういう、無神経さというよりも、或る、奇妙な無自覚さがある。 謝る必要はない、なぜなら正当だったから、という言説には、ひとつの思想として耳を傾けることができるし、反論もできるし、少なくとも理解はできる。 しかし、さんざん謝ったじゃないか、という言説には率直に言って同意も共感もできない、というか、始

    歴史と謝罪 - Oblivion? Oblivion!
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2007/04/05
    「大日本帝国が理念的に現在の日本国の「敵」ということになっても、その「敵」に属した父祖を敬えないというのならば、そのひとは基本的なところで政治に侵食されている。」
  • ソビエト型社会主義と、アメリカン・ドリームの共通点は、英雄を必要とすることだ。セルフ・ヘルプ、意志と努力の人、なるほど、彼や彼女は立派だ。しかし、英雄の存在は英雄の切り抜

    http://fromdusktildawn.g.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060727/1153958256 こういう言論の問題は、工夫する能力そのものが、環境次第で容易に欠損しうるということへの想像力がないことだ。工夫しさえすればよい。そのとおり。問題は、工夫する能力こそが物質的情況によって、まずはじめに失われるものだということだ。すべて、こういう議論は、ワーキング・プア関係でもそうだが、物質的情況は、精神を犯さないという前提がある。がんばる能力、工夫する能力こそが、物質的支援を何よりも必要とする、いちばん容易に喪失されるものなのだ。工夫できないということは、工夫しない、工夫したくないということではない。そのような読み替えこそが、つねに叱責の回路を可能にする。競争に伍せないということの、源泉の大きなもの、それは物質的リソース、手札の不足と同時に(とは

    ソビエト型社会主義と、アメリカン・ドリームの共通点は、英雄を必要とすることだ。セルフ・ヘルプ、意志と努力の人、なるほど、彼や彼女は立派だ。しかし、英雄の存在は英雄の切り抜
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2006/11/17
    はてブのコメント欄でシャドーボクシングをしてる人が若干。jouno氏は「個人の努力や意志の力」それ自体を否定しているわけではない。
  • メディアリテラシー、あるいは解釈の優劣を競うことのむなしさ - Oblivion? Oblivion!

    http://d.hatena.ne.jp/odanakanaoki/20060725#1153746892 メディア・リテラシーについては以前書いた。 http://d.hatena.ne.jp/jouno/20041206/1102344331 今読み返すと、かなり読みにくい文体で、いろいろ考えが変わっているところもある。(教育の必要、とか)しかし、あの頃から、メディアリテラシーを唱えることに感じる胡散臭さというのは、少しも変わっていない。そこで、改めて、いったいぜんたい、何故、安易なメディアリテラシー意識が、結果として、読み手が、自分の解釈で、テキストを好き勝手に判断してよい、テキストを尊重しなくていい、という陰謀論的な方向に向かってしまうのか、ということを考えてみた。 第一に、そして最終的に、基にあるのは、われわれは、判断せざるを得ない、ということがある。メディアリテラシーは、少

    メディアリテラシー、あるいは解釈の優劣を競うことのむなしさ - Oblivion? Oblivion!
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2006/11/17
    他者のリテラシを声高に問う者の陥る罠、あるいは「相対主義」の罠に陥ってジャイアンショーをやってしまう構造について。
  • りんり淋漓と天上大風 - Oblivion? Oblivion!

    http://d.hatena.ne.jp/schillasal/20050829 ぼくとしては単純に言葉の定義の違いだけの問題とは考えていません。 つまり、どういう説得をしようと、「だからなぜそうしなければならないのか?」と常に問うことはできるわけです。 ぼくは、倫理を除きます、という文言というよりは、寄せられた回答に対する態度からして、この「だからといってなぜそうしなければならないのか」と原理的には常に問い返しうる、ということへの軽視あるいは無視がある、と考えたわけです。 なるほど、現実的な他者は、原理的につねに問い返しうるからといってつねには問い返さないわけです。つまり、実際にはまだ問う余地があるところで、なぜか現実的な他者は納得してしまうわけです。 で、もしも質問が、そういう現実的な他者を説得する論理を問う、ということなら、そもそも、普遍的な答えなんかないし、答えの間に優劣もないわ

    りんり淋漓と天上大風 - Oblivion? Oblivion!
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2006/11/17
    「なぜころ」への回答。「相対主義」の正しい意味でのサンプル…かな。
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