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_sumita-mに関するo_keke_nigelのブックマーク (7)

  • 「びゅんびゅん回す 愛のムチ」 - Living, Loving, Thinking, Again

    『四国新聞』の記事; 大阪維新の会、市民団体に陳謝/発達障害めぐる表記 2012/05/07 14:11 発達障害がある子の親らでつくる市民団体は7日午後、大阪維新の会が議会提出する方針の家庭教育支援条例案について提出中止を求める要望書を同会市議団に市役所で手渡した。これに対し市議団幹部は発達障害をめぐる規定に不備があったとして「迷惑をかけて申し訳ない」と陳謝した。 これに先立ち維新の会代表の橋下徹大阪市長は条例案について記者団に「発達障害の子どもを抱えるお母さんに対し愛情欠如だと宣言するのはちょっと違うのではないか」と苦言を呈した。同時に「子育ての方法について条例でルール化するのはどうなのか」と疑問を投げ掛けた。 http://www.shikoku-np.co.jp/national/political/20120507000135 維新の会、家庭教育条例案を撤回/発達障害で批判相次ぐ

    「びゅんびゅん回す 愛のムチ」 - Living, Loving, Thinking, Again
  • 「フジテレビ文化」の「終焉」? - Living, Loving, Thinking, Again

    承前*1 「フジテレビ」http://d.hatena.ne.jp/nessko/20110904/p1 曰く、 何故、抗議の的になったのが、フジテレビ、だったのか。 人気のあった韓流ドラマ「冬のソナタ」「チャングム」を放送したのはNHKだ。韓流じゃなくて日製を放送しろ! という抗議なら、デモはNHKに向かってもおかしくない。しかし、デモに参加した人たちがネット上で書いているものを読むと、韓流以前にフジテレビが癇に障るらしいのだ。ブームのゴリ押しだと文句をいいたくなる面が、NHKには薄いが、フジテレビにある、ということだろう。 そうすると、あのデモは、韓流ブームに対する抗議というよりも、フジテレビというテレビ局に対して「もういいかげんにしろ!」と言いたくなっていた人がついに立ち上がった、という面が大きいのではないか。 マンザイブーム以降、80年代バブル期の、テレビ文化をリードしたのがフジ

    「フジテレビ文化」の「終焉」? - Living, Loving, Thinking, Again
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2011/09/08
    デモに参加した人々が取り立ててレイシストというわけでもないと思うが「韓流」は彼らには着火剤にして燃料だった。でも韓流は、日本のアイドルやドラマの「文法」をかなり忠実になぞってると思うのだが。
  • 自明であること、或いはパフォーマティヴ - Living, Loving, Thinking, Again

    http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080916/p1 http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080917/1221615929 http://d.hatena.ne.jp/usoki/20080918#1221724987 「自明」であること、その「自明」を英訳せよ。 It is self-evident. それとも、 It is taken for granted. 後者の場合、I take it for granted.と変形することができる。前者の場合がコンスタティヴな響きを持ち、それに或る種の存在論的地位を与えているのに対して、後者はパフォーマティヴ性、さらには政治性を含意することになる。 何度か書いているが、人権は英語においてはhuman rightsと複数形で表記される。ということは、そこにおいては具体的な

    自明であること、或いはパフォーマティヴ - Living, Loving, Thinking, Again
  • 大石俊一『「英語」イデオロギーを問う』 - Living, Loving, Thinking, Again

    英語」イデオロギーを問う―西欧精神との格闘 作者: 大石俊一出版社/メーカー: 開文社出版発売日: 1990/12メディア: 単行 クリック: 2回この商品を含むブログ (2件) を見る http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071012/1192195684で「英語帝国主義」論について云々した後で、「英語帝国主義」についてよく発言していた方で、大石俊一という人のを以前古屋で買って、さらに中国にまで持ってきたことに気付き、『「英語」イデオロギーを問う――西欧精神との格闘――』(開文社出版、1990)を読んでみた。 I 「英語」をめぐる心理的葛藤 II 日における「英語」「英会話」素描 III 「英語」帝国主義に抗して IV 「英語」抑圧装置に抗して V 「東」と「西」の真の平等性にむけて――西欧普遍主義の克服のために―― 参考資料 あとがき 著者は英文

    大石俊一『「英語」イデオロギーを問う』 - Living, Loving, Thinking, Again
  • 英語帝国主義とジェンダーその他 - Living, Loving, Thinking, Again

    http://d.hatena.ne.jp/terracao/20071008/1191850296で「英語帝国主義」云々を巡って、津田幸男という人のが批判的に言及されている。津田氏については、かなり以前に慶応大学の言語文化研究所の紀要に載っていた流麗な英語で書かれた論文を読んだっきり、そのテクストを読んでいないので、何だか懐かしいなと思った。このエントリーを読んでいて、何だかその英語の論文と同じような内容だなと感じたのだが、よく見てみると、このとその論文の刊行時期は1年か2年かの時差しかなかった。それで、「ホスト狂いの25歳OL」のterracaoさんによると、津田さんのロジックは「(フロイトもビックリの!)フロイト理論の酷使」であるそうな。津田さんが参考文献に挙げているかどうかはわからないけれど、岸田秀の精神分析的日論ということになるのか。既に岸田秀というのは棚にあるのが暴露さ

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  • この「独裁者」を殺すことはできないが - Living, Loving, Thinking, Again

    http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20081012/1223753840へのコメントに「「日の独裁者である「世間様」は」と言ってますが、日は民主主義国家なので、世間こそが独裁者なのは当然です」というのがあった。こういうのは正確には「民主主義」というよりも、暴民支配(ochlocracy/mob rule)というべきなのかも知れない。また、選挙などの制度としての「民主主義」が不足している体制の方が政治(国策)が「世間様」に影響される可能性は高いということも指摘しておかなければならないだろう。しかし、多数者支配としての「民主主義」にはそもそもこうした問題を孕んでいるというべきだろう。ポピュリズムの危険*1というのはその極限なのだろう。「民主主義」がベタで貫徹されてしまえば、多数ならざるマイノリティはひとたまりもない。さらに、文字通りの「独裁者」はサ

    この「独裁者」を殺すことはできないが - Living, Loving, Thinking, Again
    o_keke_nigel
    o_keke_nigel 2008/10/15
    なるほど。でも「民主主義の本旨」は、その対話可能性と修正可能性(つまり「独裁を認めない」)にもあるだろう、その「本旨」にリンクする「人権概念」。民主主義は目的というよりも不断の過程であると考えるなら。
  • 人間学的条件、そして相対主義の話 - Living, Loving, Thinking, Again

    生きている存在は、私を見て、そして言葉を発する。「私を見る」とはある程度比喩的な言い方であり、目の見えない人は、私の気配を感じる、その気配の方向へと顔を向ける、というやり方で、私のいる空間を、広い意味において「見る」。それは「私の(あるいは私ではない誰かの)存在を捉える」ことを意味する。同様に、「言葉を発する」もある程度比喩的な言い方であり、仮に発しないとしても、あるいは発することができないとしても、「ミャー」と泣くこと自体が、あるいはそれ以前の「顔を向ける」こと自体が、そうしたことさえもが一つの言葉として私達に向けて発せられる。最大限に広い意味での「呼びかけ」のことである。「見る」方法の多様性、その用いる「呼びかけ」の多様性、その他諸々の多様性において、私達は区別された異なる存在であるが、しかし、「見る」「呼びかける」存在としての形式において一致している。他者とは、一言で言えば、私と同一

    人間学的条件、そして相対主義の話 - Living, Loving, Thinking, Again
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