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  • 元離宮二条城 この国に遺された最後の御殿 その障壁画とは  - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    唯一 遺された二の丸御殿 権力の転換、その確認を明示するかのように、都に、突如出現した葵の城、二条城。 慶長8(1603)年、すでに解体されていた豊臣秀吉の聚楽第に対抗するかのように建てられたこの城は、まさに、京都における徳川家の拠点のひとつでした。 拠点のひとつといっても、知恩院、南禅寺など、徳川家カラ―を残している寺院などとは規模が異なり、やはり、ここ二条城には特別な存在意義が感じられます。 桃山時代には城郭造営が発展をとげ、時代の記念というべき天守閣を中心に、丸御殿をはじめ多数の殿館が建ち並びました。 ですが、安土城、伏見城、大坂城など天下の覇者たちが創り上げたその名城たちは、二条城を除いてすべて現存していません。 そう、二条城の二の丸御殿だけが、寛永期からの「御殿」という形式をそのままに見ることの出来る日で唯一の殿館なのです。 その御殿の特徴とされる「書院造」は、室町時代の中期

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    ot_nail 2022/09/01
  • 桂昌院  遠くへ 西陣のお玉は江戸で将軍の母になった - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    江戸幕府第五代将軍 徳川綱吉 徳川綱吉の母・桂昌院は、ある悩みを抱えていたことで祈祷に通いつめていました。 息子の綱吉に後継ぎができないこと、つまり孫が授からないのは、自身の信仰心が全然足りていないからなのだと苦悩していたのです。 もともと信仰心の篤かった彼女は祈祷にますます熱中し、真言宗の僧侶の教えを恃みとすることになります。 ですが、そんな彼女の願いが叶うことはありませんでした。 将来的に、徳川六代将軍の座は、綱吉の亡くなった兄・綱重の子である綱豊(家宣)に引き継がれてしまうことになるのです。 徳川綱吉は為政を行っていた期間に、46家の大名を改易もしくは減封して、1300人の旗・御家人を処罰しました。 尋常ではないこのパワハラ行為があまりにも理不尽だったために、家臣を何だと思っているんだと、桂昌院は体を震わせて憤り息子に忠言していたといいます。 西陣のお玉さん 桂昌院の幼名はお玉とい

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    ot_nail 2021/03/11
  • 千本釈迦堂 奇跡の建築  高次とおかめ 君に出会えてよかった - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    そして堂だけが残った 有名な観光寺院では、堂、山門、講堂、塔というように、昔からの伽藍群のそのまま全てが揃って残されています。 ですが、京都のお寺には、町のなかに一部分だけが残されているというケースがじつは多いのです。 そして、その残されている一部分とは、ほとんどが堂である場合が多いんですね。 やはり、とりあえず一番大切な尊を祀る堂だけは、予算がなくても復興を急がなければならなかったからでしょう。 でも、堂だけが創建から一度も罹災することなく、およそ800年前からその姿をとどめた大建築が洛中にあります。 千釈迦堂の名で親しまれている大報恩寺。相次ぐ戦乱によって堂以外の建物は悉く焼失しましたが、安貞元(1227)年に建てられた堂は国宝に指定されているのです。 そして、お寺のある一帯は西陣というエリアであり、応仁の乱のときに西軍側の陣営部があったという、まさに激戦地区にあた

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    ot_nail 2021/03/04
  • 法成寺を建てた藤原道長  欠けることのない満月  - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    酒の席での戯言 平安時代最高の権力者といわれる藤原道長。 大勢の公卿を自宅に招いた宴の席で「私は欠けることのない満月だ。この世界は私のためにある」という趣旨の和歌を詠み、その場を凍りつかせました。 その慢心に聞こえる自画自賛は「酒の席での戯言でしょ」と流されることもなく、1000年たった今でも語りつがれることになるのです。 寛仁4(1020)年、九体阿弥陀を安置する法成寺(ほうじょうじ)は、道長によって洛中に建立されます。 天喜6(1058)年に堂々伽藍が悉く炎上するまで、現在の京都御所と賀茂川の間に位置し、巨大な規模を誇っていました。 その大きさは方二町、240メートル×240メートルで一万七千坪。平安京官寺の東寺・西寺と同じ規模です。 造営には受領はもちろん公卿や僧侶も協力し、諸国から工人や仏師なども駆けつけ、5000人近い人夫が召集されました。 寝殿造にみられる築山・池泉などが構えら

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    ot_nail 2021/02/25
  • 和泉式部  恋愛歌人 そのバラ色の生涯 - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    誰もが振り返る美貌 平安時代、王朝の三才女と呼ばれたのが、清少納言と紫式部、そして和泉式部です。 この三人の女流作家は、ともに、一条天皇の中宮のもとに女房として出仕していました。 まず最初に、中宮・定子に仕えたのが清少納言で、その後に中宮となった彰子(しょうし)には、紫式部と和泉式部が順に仕えています。 定子サロンに変わり、新たにできた彰子サロンでは、紫式部と和泉式部の二人は才名の存在であり、絶妙な文の書き手としての才能を発揮していました。 そして恋愛歌人と言われた和泉式部のほうは、和歌の天才でもあり、町を歩けば誰もが振り返るほどの美貌に恵まれていたのです。 そんな彼女は、やはり、その時代の最高権力者であった藤原道長から「浮かれ女」と揶揄されるほどの激しい情熱と華の持ち主でもあり、男から男へと、業の深い恋愛を遊行したといいます。 和泉式部が最初の結婚をしたのは、彰子に仕えるずっとずっと前の

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    ot_nail 2021/02/16
  • 清少納言  February Morning  東の空を見上げて - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    春はあけぼの。それは余韻をもたせた日的表現 四季折々の風物が見事に描写された「枕草子」。 清少納言の観察力と感性の鋭さで描かれた、その平安文学の傑作は、今日読み返されても色あせることはありません。 「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこし明りて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。」 この有名な冒頭にでてくる春の描写は、朝日の昇る東山連峰の光景をとらえたものです。 春で最も美しいのはあけぼのである。と言わずに、「あけぼの。」と名詞止めにしてあとは省略する。 察してくれよと、全部は言わない典型的な日人の表現なのです。 一条天皇の中宮である定子(ていし)に清少納言は女房として仕えていましたので、住居していた内裏の回廊から、早朝の東の風景を細やかに観察していました。 暗く雄大にみえた東山がうっすらと明るくなり、それが徐々に広がっていく。 山頂に太陽が顔を見せると、その輪郭がすこし朱く

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    ot_nail 2021/02/13
  • 法性寺  藤原北家 その偉大なる系譜の氏寺 - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    藤原北家の摂関独占 平安時代初期から後、藤原四家のなかで摂政・関白の座を独占したのは藤原北家でした。 かって勢力を誇示していた南家や式家は、相次ぐ政争に巻き込まれてすでに失脚していました。 院政期以降は形骸化したとはいえ、明治維新までの900年の間、分家しながらも藤原北家はその地位を守り続けていたのです。 まず最初に藤原北家の権力独占の大きな糸口を掴んだのは藤原良房(よしふさ)でした。 9世紀中期、良房の娘である明子(めいし)は文徳天皇に入代します。 そこに誕生した惟人親王が、清和天皇として9歳で帝位についたとき、良房は、幼少の君主に代わって政治を執り行う摂政の初例となります。 良房から甥で養子の基経(もとつね)へ、さらに、その子の時平(ときひら)へと、その絶対的権力は引き継がれました。 ところがここで、藤原体制の権力独占を阻止するために、宇多天皇が菅原道真を時平の対抗馬に宛がい重要ポスト

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    ot_nail 2021/02/01
  • 徳川家光によって再興され現在の姿になった観光寺院が京都ではなぜ多いのか - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    福運の姫君 徳川二代将軍・秀忠の五女である和子が後水尾天皇に入内したことで、度々起こっていた公武関係の危機は、次第に回避されていくようになりました。 まさに、朝廷と幕府の平和への架け橋となった和子は、京都文化の復興にも大きな足跡をのこしています。 政治的な役割よりも、むしろ自身が宮廷の人となって、王朝の伝統を守り続けるという文化的役割を担ったのです。 京都における数々の巨刹の寺社は、江戸時代初期のこの寛永期にほとんどが再生されています。 それらは、東福門院・和子の意図に従った三代将軍・家光(兄)の名において復興されたのですが、その事実は、京都の歴史を理解する上で非常に注目すべきところなんですね。 この時期の公家衆は、徳川幕府によって完全に政治の世界からしめ出されていましたが、その反面、幕府によって経済的な面を充分に保証されていました。 たとえば、摂家では近衛家の2865石から鷹司家の150

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    ot_nail 2021/01/18
  • 本能寺の変 そのあとすぐの話  明智光秀と「京町中の者ども」 - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    謀反は突然に 天正10(1582)年6月2日、まだ夜の明けきらぬ京都の町。 明智光秀の率いる一万三千の兵が能寺を囲み、滞在していた君主・織田信長に襲いかかりました。 「あの、明智どのが・・・まちがいないのか」 安土城の留守を守る蒲生賢秀(がもう かたひで)は、京からの使者に何度も念おししましたが、答えは同じです。 その突然の知らせに安土城内は大騒動になりました。 「おのおの、おちつきめされよ」 蒲生賢秀は、慌てふためく同輩たちを制しにかかりましたが、皆、突然の主人の横死に気が動転し、がっくりと首を垂れて、眼はうつろになっています。 城下では、夜になって、山崎源太左衛門という留守役が自分の屋敷に火をかけて逃げだすと、それを皮切りに、尾張・美濃を貫とする御番衆・留守役のほとんどが、子をつれて領地へ逃げ戻ります。 賢秀はあきれ果てましたが、極限状態に追い込まれた人間がまず自己保身にはしるこ

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    ot_nail 2021/01/06
  • もうひとつの伏見城 リバーサイドの城郭 月の色をもらって - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    川面に映える名月 指月城 伏見山の西南に、「指月(しげつ)の森」と呼ばれる小さな丘があります。 そこは、宇治川を臨む風光に恵まれた場所で、大坂と京都をおさえる重要な要衝でもありました。 川面が映しだす月の色をもらうために、豊臣秀吉はこの地に指月・伏見城を築きます。 文禄3(1594)年8月、工事はひと区切りつき、伏見城は祝儀に訪れる大名たちで溢れていました。 淀城の天守閣と矢倉が解体されて伏見城へ移されたり、滝の座敷と呼ばれる豪華な会所も造られて、各地より名石や古塔が集められるなど、まさに秀吉の芸術境といえる巨城がここに完成したのです。 そしてこれに伴い、秀吉の意をくんだ大名たちによる大規模な都市構造の改新が伏見城周辺で行われていました。 たとえば、前田利家は、丸東側に「御舟入」と呼ばれる河港の築造と、槙島堤の造成に着工しています。 これは、巨椋地区にそそいでいた宇治川を、槙島堤によって

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    ot_nail 2021/01/03
  • 本能寺の変  しかめっ面の英雄 最後の言葉 - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    春の陽が地上に降りそそぐ穏やかな日、出陣する織田信長軍の傍らの畑で、農民がスヤスヤと居眠りをしていました。 これを見た、信長の顔色をうかがう木下秀吉は、「こいつらのために合戦にいくのに」と激怒し、眠っている農民に斬りかかろうとします。 ですが信長は、「いや、俺の国では農民がのんびり眠れるようにしたいんだよ」とそれを止めたのです。 日人の幸せ 若いころの信長は城下町をほっつき歩いていましたが、それは、同世代の人々が何を望んでいるのかを、懸命に探し当てるためでした。 そして、その答えは明白だったのです。「戦争が終わった世で平和に暮らしたい」「豊かな生活がしたい」「平等に扱われたい」 こういう世論をつかんだ信長は、すでにこの頃から日の平定を最優先思想とするのです。 平和な世でなければ話にならない、そうでなければ、他のものは何ひとつ成立しない。 じつは、このような「日人全体の幸せ」を視野に入

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    ot_nail 2020/12/28
  • 大坂城が落城した そのあとの京都の話 反骨の突っ張りたち - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    豊臣恩顧たちの選択 元和元(1615)年5月7日、難攻不落と称された豊臣・大坂城は、徳川軍からの猛攻撃を受けて、ついに落城しました。 翌8日、人質として豊臣秀頼に嫁いでいた家康の孫娘・千姫からの助命嘆願も受け入れられず、ついに、秀頼、淀殿ともに自害し帰らぬ人となったのです。 千姫の救出を見届けた家康が二条城に凱旋したので、あいついで、諸将たちも入京することになります。 二条城内はすぐに、戦勝祝いに訪れた公武関係の要人たちで溢れかえっために、家康は秀忠と協議して対応にあたりました。 そして、豊臣恩顧といわれた諸将たちは、この後、あっさりと徳川家に従順していきます。 この先の家族たちの将来も考えていたのでしょう、もちろん武士としても、それなりに様々な決意があったはずです。 秀吉のであった北政所、つまり高台院が徳川側についたのも、彼らの気休めにも口実にもなったのかも知れません。 ただ、諸将た

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    ot_nail 2020/08/17
  • 激動の時代と寺社復興  信長・秀吉・家康は一括りに捉えるのが歴史を理解するコツ - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    激動の50年 永禄11(1568)年に織田信長が入京してから、元和元(1615)年の豊臣家滅亡までの僅か50年に満たない日月。 この短いながらも激動の時代は、近世封建制度の成立と、京都の新たな都市計画の始まりでした。 中世の終わりから仏教は貴族から庶民のものへと脱皮していき、旧仏教系の寺院も新仏教系の寺も、新しい時代への対応を模索しながら堂宇の復興に努めることになります。 京都の仏教界は豊臣政権の成立とともに、信長時代から一転した親和的な復興援助を与えられていました。 ただ、それには寺領検地という代償も伴なっていたのです。 寺領検地は、信長の時代から洛中の寺院に対して出されていた令でしたが、秀吉政権によって格化されました。 洛中のすべての土地の所有権は、原則的にはもともと皇室・公卿などにあります。 これが、何世紀にもわたる長い歳月のなか、この所有主から直接または間接的に、寄進・買い入れ・

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    ot_nail 2020/08/12
  • 近世の覇者と仏法 織田信長包囲網 暗闇の中のひとすじの光  - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    京都に出現した近世的覇者 王城を抱く京都が堅持した古くからくる伝統や、そこに住む人々の生活から育った風習。 新しい街の支配者である織田信長は、これらを一切認めませんでした。 永禄11(1568)年、中世末のカオスの世界から生まれた近世的覇者は、京都に出現したのです。 当時の日人としては珍しい存在なのですが、信長は来世の存在を信じていませんでした。 来世の概念を否定し罪の意識も持たない信長は、仏教からもキリスト教からも無縁な存在であり、無縁な人生を選んでいたのです。 それは同時に、偶像すなわち仏像や神像を大切にする社寺の存在価値が、否定し去られたことになります。 朝廷や公家、古くからの大社・名刹、都に根強く教線を伸ばした新仏教、町衆など、独特の宗教的雰囲気になじんできた当時の京都の人々にとって、おそらく、信長は歓迎すべき相手ではなかったのでしょう。 そして、信長のこの宗教観によって、やがて

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    ot_nail 2020/08/06
  • もうひとつの二条城  織田信長の入京 あの鐘を鳴らすのはあなた  - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    信長が築造した二条城 二条城といえば、徳川家康によって築造された現在も遺る「京之城」をいいますが、京都にはもうひとつの「二条城」がそれよりずっと以前から存在していました。 それは、足利幕府最後の将軍・足利義昭のために織田信長が築造したかなり大規模な城郭です。 永禄12(1569)年、内裏(御所)のすぐとなりにあった兄・義輝の邸宅あとに、義昭の住居として信長が再建工事を始めたのです。 現在の丸太町烏丸の北西一角の場所なのに、なぜ二条城と呼ばれていたのかというと、おそらく、平安京の二条坊あたりの場所だったからなのでしょう。 百数十体の石仏や、年号が刻まれている板碑・五輪塔、瓦、緑釉など、この場所でかなりの遺跡が発掘されていて、もうひとつの二条城の正確な位置を知るうえで、大変貴重な手がかりとなりました。 京童たちの不安 永禄11(1568)年、これまで尾張の一戦国大名にすぎなかった織田信長は、6

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    ot_nail 2020/08/01
  • 三十三間堂  千手観音像に守られた奇跡のお寺 - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    750年前から守られてきたお堂 長さ125mの仏殿の中に、1001体の千手観音像が整然と並ぶ、国宝、蓮華王院・三十三間堂。それは、奇跡の宗教建築です。 後白河院が、当時住んでいたという法住寺殿の中に、長寛2(1164)年に建立しました。 そして、これを全力でサポートしたのが平家総帥・平清盛です。 1001体という黄金の観音の恵みを与えられることで、人々が救われる浄土を、後白河院と清盛はこの世に作ろうとしたのです。 千手観音の正式な名称は十一面千手千眼観世音菩薩といいます。つまり、千の眼をもって、世の人の苦難を見、千の手をもって、世の人の苦難を救う仏です。 人々が救いからもれてはいけないので、なるべく多くの手、すなわち千の手を持っているのです。 観音は33の姿に変身して現れ人々を救います。そのゆかりからお堂の内陣の柱の間数が33あり、三十三間堂と呼ばれるようになりました。 内部は極彩色の文様

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    ot_nail 2020/07/28
  • 平等院  鳳凰堂  龍神に守られた平安時代の象徴 - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    建物から飛び出している尾廊 宇治川のほとりから朝日が昇るとき、その眩い光が池の水面に当たり、反射してお堂の中を照らしています。 さざなみのようにキラキラ揺れる光を受けた仏像は、まるで胸のあたりで呼吸しているかのよう。 生み出された自然の光によって、阿弥陀如来坐像はまるで生命が宿っているように見えるのです。 そんな平等院・鳳凰堂は、宇治川の近く、この世のものとは思えない美しい極楽浄土を表現しています。 極楽の世界から舞い降りてきた、仁智があり、生枝を折らない鳳凰という霊鳥の姿に見立てられた鳳凰堂。 尾羽根のような尾廊が建物から飛び出しているさまは、今にも飛び上がらんとする躍動感に満ちています。 龍神に守られた鳳凰堂 永承7(1052)年、関白・藤原頼道によって平等院は創建されました。 それは金堂・五重塔・三重塔・釣殿・宝蔵・鳳凰堂などが立ち並ぶ巨大伽藍で形成されています。 古来から平等院のあ

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    ot_nail 2020/07/26
  • 豊国神社 京都東山七条  平和への歓喜に沸く風流踊り - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    歓喜に沸く豊国大明神臨時祭 慶長3(1598)年、豊臣秀吉は伏見城で他界し、方広寺大仏殿の背後にそびえる阿弥陀ヶ峰に理葬されています。 翌慶長4年には、「豊国大明神」という神号を朝廷から与えられ、正式に神格として祀られました。 これが「豊国神社」の創建であり、生前の秀吉の「自ら神になりたい」という神格化の願いは、東山・阿弥陀ヶ峰の地で叶えられたのです。 その後、慶長9年8月の秀吉の七回忌にあたって、豊国神社を中心にして豊国大明神臨時祭が盛大に行われました。 溢れるほど人々がくり出している風流踊りの様子が、岩佐又兵衛の豊国祭図屏風に描かれ遺されています。 まさに、関ケ原の戦後の解放感からみちびかれた平和への歓喜が、京中に沸きかえるありさまなのです。 ただ、このとき民衆たちは大いに盛り上がっていたのですが、豊臣家の人々は、徳川から執拗に嫌がらせを受ける辛い日々をおくっていたのでした。 徳川から

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    ot_nail 2020/07/21
  • 建仁寺 所蔵  俵屋宗達 風神雷神図屏風 魔法使いと呼ばれた天才絵師 - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    鎌倉幕府の第2代将軍・源頼家の寄進によって建立された建仁寺。 武家の強力なバックアップを受けて、14世紀には、京五山第三位の臨済宗・名刹となりました。 現在では、禅寺にしては珍しく格式ばらない寺院として、境内のある祇園・花街の人々にも親しまれています。 謎多き天才絵師 そして、誰もが知っている有名な国宝の屏風がここに伝わります。 俵屋宗達 筆・『風神雷神図』2曲1双。これは、風神と雷神が躍動する、彼の最高傑作といわれている屏風画です。 17世紀前半の寛永年間の制作であり、宗達の真筆であることは確実視されているんですね。 (現在は京都国立博物館に寄託されていて、建仁寺にはキャノン高精細複製品が展示されています) たしかな伝記もなく、生没年さえ不詳の謎であった宗達ですが、今まで知られる確実な情報がいくつかあります。 まず、京の富裕層の町衆であり、俵屋という屋号の大規模な絵屋(工房ギャラリー)の

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    ot_nail 2020/07/17
  • 金地院   禅宗最高峰の住持 以心崇伝  - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    悪国師の名を受けて 徳川家康には、極めて優秀で才覚に長けた徳川幕府三百年の治世の基盤を築き上げたブレーンが二人いました。 一人は、民衆に絶大な人気のあった天台宗の傑僧・南光坊天海。 そして、もう一人は「悪国師」と呼ばれ、人々を苦しませる悪役の役割を担った「黒衣の宰相」以心崇伝(いしん すうでん)です。 南禅寺の塔頭寺院である金地院は、もともと南禅寺の住持だった崇伝によって再興されました。 幼いころから突出した学才を身につけていた崇伝は、わずか37歳の若さで南禅寺の住持となったのです。 当時、南禅寺は禅宗最高峰の寺院であり、その住持となることはすべての禅僧の目標であり夢でした。 その崇伝の異例の出世は、足利義輝の近臣・一色藤長の孫であったという出自もあるのですが、やはり並ならぬ頭脳と世才が備わっていたからできたに違いありません。 https://photo53.com/ 方広寺・鐘銘事件

    金地院   禅宗最高峰の住持 以心崇伝  - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  
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    ot_nail 2020/07/04