~「幸せは、犠牲なしに得られないのか。時代は、不幸なしに超えられないのか」 草間博士「ジャイアントロボ」~ はじめに アニメにも小説にも映画にも、作品としての面白さとは無関係に、思想的に相容れない作品というものがある。 「メガゾーン23part2」の選民思想。 私刑をよしとした「評決のとき」。 殺人犯の身勝手な倫理観に作者が無自覚な「魔術はささやく」。 世界のリセット願望を肯定してしまった「なるたる」。 「たかが絵画より人の命が大事」と、名画に対して許し難い行動をとる「ひまわりの祝祭」。 初めてプレイして半年経ったが、「Fate」も、私のなかではそういう作品の一つに位置づけられている。この小論は、その原因を「犠牲」と「変容」の2つのキーワードからもう一度考えてみたものである。 1 犠牲ということ 私のずっとひっかかっている疑問は、「なぜセイバーを、士郎自らの手で、かくも卑劣で残酷な方法で殺