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今村明恒とはの検索結果1 - 40 件 / 73件

  • Googleで片付かない捜しものチートシート

    ・NDC 日本十進分類。 キーワード検索→百科事典→参考文献→OPACと経ることで、自分の知りたいことがコード化される。しかも、そのコード体系は日本中の図書館で使われている。図書館の棚の間を歩くことは、このコード・システムの腹の中を歩くことである。 本を見つけるだけでは「点」を検索するにすぎなかったのが、NDCコード化することで鳥瞰的/Bird View的な文献捜索が可能になる。 すなわち、文献の参照ネットワークをひたすら手繰る「いもずる式」とは別の、文献へのアプローチを手に入れたことになる。 ・『日本の参考図書』 レファレンス・ツールなので、普通の値段ではないが、手元に置くと、文献検索をいつも「5合目」から始められる。毎回、「ふもと」から歩くのも悪くないが、毎日富士山を登っている常連なら「5合目」まではバスで来る。 もう少し普通の本の値段で手に入るものなら『情報源としてのレファレンス』(

      Googleで片付かない捜しものチートシート
    • 【日本の元気 山根一眞】日本唯一の「雑誌図書館」を守りたい 「大宅壮一文庫」がなければ取材や執筆は成り立たない(1/2ページ)

      大宅壮一文庫理事長は評論家の大宅映子さん。後ろの書棚の写真は大宅壮一氏と初代理事長、大宅夫人の昌さん。最近行った対談の際に山根事務所スタッフが撮影 1923(大正12)年9月1日、相模湾を震源とする関東大震災が発生した。東京都心は大火災に見舞われ、首都は壊滅。死者・行方不明者は10万5000人。その犠牲者の87%が焼死という生き地獄だった。 その関東大震災を予測し、想定焼失戸数や死者数を18年前の1905(明治38)年9月に発表した偉大な地震学者がいた。今村明恒(1870~1948年)だ。 雑誌『太陽』(博文館)に「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」という一文を寄稿したが、一般向け雑誌であったため大反響があり、その後「ほら吹き」という批判にさらされることにもなった。2013年には『関東大震災を予知した二人の男 大森房吉と今村明恒』(上山明博著、産経新聞出版発行)という

        【日本の元気 山根一眞】日本唯一の「雑誌図書館」を守りたい 「大宅壮一文庫」がなければ取材や執筆は成り立たない(1/2ページ)
      • 深発地震 - Wikipedia

        千島列島の震源断面図。太平洋側A'からオホーツク海側Aに向かって深くなるように深発地震面が分布する。 黄緑・青に着色されたのが稍深発地震、紫・赤に着色された震源が深発地震。 深発地震(しんぱつじしん、英: deep(-focus) earthquake)とは、地下深いところで発生する地震のことである。深発地震は原則として、深く潜り込むリソスフェア(スラブ)内部の性質変化に起因するスラブ内地震(英: intraslab earthquake)である。プレートテクトニクスの観点からは海洋プレート内地震(沈みこんだ海洋プレート内で起こる地震)に分類される。 観測史上震源が最も深い地震はUSGSがフィジーにおいて観測した深さ700 kmを超える地震とされており[1]、日本においては小笠原諸島西方沖地震 (2015年)の余震である、震源の深さ698 kmが最も深い地震とされている[2]。 定義[編集

          深発地震 - Wikipedia
        • 今村明恒の悲劇

          地震予知の語り部・今村明恒の悲劇 (『武蔵野学院大学日本総合研究所研究紀要』 第7輯。2010年3月発行の原稿) 1:前書き 東大助教授で地震学者だった今村明恒(いまむらあきつね、1870-1948)(右下の写真。その下は今村が作った「今村式三成分簡単地動計(いまでいう地震計のこと)」。『科学知識・震災号』、科学知識普及会、1923年から)は当時としては珍しく、地震予知に情熱を燃やした学者だった。当時の学界では、地震予知は星占いのようなあてにならないものと考えられていた(【追記:註】)。 今村は関東地震(1923年)や東南海地震(1944年、マグニチュード7.9)がいずれ襲って来ることを予想して、為政者や人々に防災の準備を説いた。また地震予知の基礎になる観測網を展開することにも熱心だった。そのために私財も投げうった。 しかし、いずれ大地震が来るという彼の警告には「世を騒がせるだけだ」という

          • Masato Koyama's Home Page (火山)

            あなたは1998年9月4日以来,人めの利用者です. 小山研究室では,火山学一般,歴史時代の火山噴火・地震活動史,テクトニクス,地震・火山防災,ジオパークなどを,おもに研究しています. Hot news ●能登で生じた地震隆起 かつて県内も 対策柔軟に NEW! ●鳥島近海「謎の津波」海底火山噴火が原因か NEW! ●伊豆東部のマグマ活動 海岸の隆起跡から解明NEW! 元論文の掲載サイトとプレスリリース ●富士山の溶岩到達範囲 過去の経験に固執 危険NEW! ●手薄な県内の防災専門家 組織的な雇用と育成をNEW! ●2022年台風15号による静岡県中部巴川下流域の河川氾濫NEW! 論文中に提示した浸水分布図(Fig.4A) ●静岡県点群データからQGISで高精細3D地形図を作成しスマホに移して散歩する方法 ツイッターまとめNEW! ●富士山火山避難基本計画 多様な想定での訓練をNEW! ●富

            • 稲むらの火 - Wikipedia

              稲むらの火(いなむらのひ)は、1854年(嘉永7年/安政元年)の安政南海地震による津波に際しての出来事をもとにした物語。地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説く。小泉八雲の英語による作品を、中井常蔵が翻訳・再話したもので、文部省の教材公募に入選し、1937年から10年間、国定国語教科書(国語読本)に掲載された。防災教材として高く評価されている[1]。 もとになったのは紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)での出来事で、主人公・五兵衛のモデルは濱口儀兵衛(梧陵)である[2]。 物語の概要[編集] 「稲むら」(稲叢)とは積み重ねられた稲の束のこと。稲は刈り取りのあと天日で干してから脱穀するが、上のように稲架(はさ)に架けられた状態を「稲むら」と呼ぶ。 ただし脱穀後の藁の山も「稲むら」と言うことがあり、史実で燃やされたのは脱穀後の藁である。 村の高台に住む

                稲むらの火 - Wikipedia
              • 南関東直下地震 - Wikipedia

                マグニチュード7級の地震が時折発生するという点では、南関東も日本の他の地域も同様である。しかし、南関東では以下のような理由により地震の頻度が高く、また被害の程度が顕著になると想定されることから、地震学・地質学の研究においても防災の観点においても注目され、重要視されている。 まず、関東地方には日本の他の地域と同様に地表近くに活断層が存在すると同時に、地下では相模トラフ付近だけではなく、群馬県南部・栃木県南部までプレートの境界が存在し、そこでも地震が発生する。北関東では震源が深いため揺れが減衰されるが、南関東では震源が浅いため強い揺れが起こる。しかも、南関東では地表を覆う大陸プレート(北アメリカプレート, NA)の下に南から海洋プレート(フィリピン海プレート, PHS)が沈み込み、さらにその下に東から海洋プレート(太平洋プレート, PAC)が沈み込んでいる複雑な構造であり、関東付近におけるプレ

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                • 島村英紀の ホームページ

                  ENGLISH TRANSLATION (先年までは「英紀」がEnglish Periodになったりして、本人も仰天していたのですが、まだ滑稽ながら、機械翻訳も少しずつは進歩しているようです) 最終更新日 : 2024年2月28日 島村英紀 (しまむら ひでき) 地球物理学者。日本文藝家協会(日本文芸家協会)会員(日本文藝家協会とは) よくいらっしゃいました。あなたは1999年9月の開設以来 人目のお客様です。 ことしは開設以来23年目になります。 ●メインのページはこちら(*)ですが、そのほかに、 ● ミラーサイト1(携帯サイトへの自動変換が可能)とミラーサイト2(*)の二つのミラーサイトの運用をしています。背景のシボシボがない方がいい方は前者のホームページをご覧ください。 それぞれのサイトは技術的な理由から、更新が遅れることがあります。 なお、(*)のサイトでは、ホームページにあるpd

                  • 地震の年表 (日本) - Wikipedia

                    西暦換算に関する注意 1582年以前に発生した日本の地震の西暦換算については、ユリウス暦であるか、グレゴリオ暦であるかを明記してください。Wikipediaの表記ガイドでは原則としてユリウス暦で表記することになっていますが、『理科年表』など多くの文献ではグレゴリオ暦表記となっており、混乱を避けるために注意が必要です。 詳細は日本の歴史地震の西暦換算を参照してください。 416年8月22日(8月23日)(允恭5年7月14日) 允恭地震 - 遠飛鳥宮(大和国/現・奈良県明日香村)付近で地震。『日本書紀』に「地震」の記述がある。玉田宿禰による政治的事件として記述。記録に残る日本史上最初の地震である[39][40]。 4世紀 - 5世紀ごろまたは430年ごろ、三陸から房総にかけてM9級の超巨大海溝型地震と津波発生の可能性。産総研は869年の貞観地震と2011年の東北地方太平洋沖地震と同程度の規模の

                      地震の年表 (日本) - Wikipedia
                    • 日本の地震年表 - Wikipedia

                      西暦換算に関する注意 1582年以前に発生した日本の地震の西暦換算については、ユリウス暦であるか、グレゴリオ暦であるかを明記してください。Wikipediaの表記ガイドでは原則としてユリウス暦で表記することになっていますが、『理科年表』など多くの文献ではグレゴリオ暦表記となっており、混乱を避けるために注意が必要です。 詳細は日本の歴史地震の西暦換算を参照してください。 416年8月22日(8月23日)(允恭5年7月14日) 允恭地震 - 遠飛鳥宮(大和国/現・奈良県明日香村)付近で地震。『日本書紀』に「地震」の記述がある。玉田宿禰による政治的事件として記述。記録に残る日本史上最初の地震である[39][40]。 4世紀 - 5世紀ごろまたは430年ごろ、三陸から房総にかけてM9級の超巨大海溝型地震と津波発生の可能性。産総研は869年の貞観地震と2011年の東北地方太平洋沖地震と同程度の規模の

                        日本の地震年表 - Wikipedia
                      • 昭和東南海地震 - Wikipedia

                        地震後の津波では、震源域に近い三重県尾鷲市を中心とした熊野灘沿岸一帯に壊滅的な被害をもたらした。三重県、和歌山県沿岸で特に高く、波高は新鹿で6-8m、賀田で7.1m、錦で6m、勝浦で4-5mであった[35]。最大波高は尾鷲市賀田地区で記録された9mである。第一波の到達後、家へ荷物などを取りに戻ったところ、第二波に巻き込まれて亡くなった例もあった。津波被害はアメリカ軍により空中撮影された[10]。 静岡県御前崎においては地震後約5分で引き波が生じ、地震後約40分の14時27分に津波の第一波が到達し、その後も14時50分、15時0分、15時30分、16時17分と到達した。最も高いのは第三波の15時で、19時頃も高かった[12]。熊野灘では地震後10-20分で到達した。 津波は伊勢湾にも進入したが、被害は少なかった[33]。 都市基盤と産業被害[編集] 被害地域は広範囲に及んだ。特に名古屋市を中

                          昭和東南海地震 - Wikipedia
                        • 地震の人類史『図説・地震と人間の歴史』

                          地震が文明にどのような影響を与えてきたかを考察した一冊。 西欧人の立場から、人類が地震現象をどのように受け入れ、科学としての地震学がどのように誕生し、発展していったかを解説する。地震の測定方法の変遷、プレートテクトニクス理論の浸透、予知の可能性、文化や精神面への影響など、図解を多用しながら多角的に説明する。 大いに興味をそそられたのは、地震が人類に与えたインパクトを大きめに見積もっているところ。1755年のリスボン大地震や1923年の関東大震災を引きながら、人やインフラへの被害のみならず、国家経済そのものへもたらした影響を強調する。ポルトガルを衰退期に追いやり、昭和金融恐慌を引き起こし、急速な軍事化をもたらしたのは、それぞれの首都を直撃した大地震だというのだ。 歴史学者は、社会が変容する原因を「人」の営為に求めようとするあまり、地震など自然災害による変化を最小限に見積もろうとする傾向がある

                            地震の人類史『図説・地震と人間の歴史』
                          • 大正時代の書籍広告

                            島村英紀の「大正期の出版センセーショナリズム学」 1855年に江戸を襲った安政江戸地震の直後には、驚くほど多くの木版による大衆出版物が発行された。そのほとんどは、大衆が喜ぶセンセーショナリズムを煽る出版物だった。その中には多くの鯰絵もある。 そして、10万人以上の死者・行方不明者という日本史上最大の悲劇を生んだ1923年に起きた関東大震災のときも、震災関連の出版がおそるべき早さと量で、世に出された。 その出版物そのものにはここでは触れないが(これについては、たとえば島村英紀の論説などがある。将来はもう少しきちんと検証する予定。乞ご期待)、それらの本の最後尾にある広告を見るだけで当時のセンセーショナルな出版事情が垣間見える。 1−1:読売新聞はすでに当時から「部数が命」でした。 科学知識普及会というところが出していた一般向けの雑誌『科学知識』は、1923(大正12)年9月1日の関東大震

                            • [PDF]関東大震災と文豪 - 成蹊大学図書館の展示から -

                              ― ( 11 )86 ― 児玉千尋 関東大震災と文豪 関東大震災と文豪 ――成蹊大学図書館の展示から―― 児 玉 千 尋 Ⅰ.目的 方丈記が書かれてから 800 年にあたる節目の年 2012 年に、成蹊大学図書館では 「災害文学としての『方丈記』と東日本大震災」という展示を行った。震災に関す る資料を集める過程で、関東大震災に遭遇した著名な文豪たちが残した文学作品が 数多くあり、まだまとまった形では研究をなされていないことが分かった。一つ一 つの作品を読むだけでも充分興味深いが、ある一時期に関してこれだけ様々な作家 が、これだけのヴォリュームのものを残しているということは、当時を知る上でも 非常に貴重な資料といえる。これは、個々の作家研究、作家仲間の関係性、あるい は歴史資料としてなど様々な方面から分析できそうである。一体、歴史上のある一 日に関して、これほど様々な人の証言がある日というの

                              • 内藤多仲 - Wikipedia

                                内藤 多仲(ないとう たちゅう、1886年〈明治19年〉6月12日 - 1970年〈昭和45年〉8月25日)は、日本の構造家・建築構造技術者・建築構造学者・一級建築士(登録番号第17200号)。「耐震構造の父」と称されている[1]。名古屋テレビ塔や東京タワーなど、鉄塔の設計を多く手がけ、「塔博士」とも呼ばれている。日本建築学会長、日本地震工学振興会会長などを歴任。 経歴[編集] 東京タワー 山梨県中巨摩郡榊村(現南アルプス市曲輪田)出身。旧制甲府中学(現・山梨県立甲府第一高等学校)、第一高等学校を経て東京帝国大学(現在の東京大学)入学。最初は造船学を専攻していたが、日露戦争後の造船不況を考慮して建築学に転向。佐野利器に師事した。 1910年に東京帝国大学卒業(同期に高松政雄、安井武雄らがいた)、1913年に早稲田大学教授。 1917年-1918年、アメリカへ1年間留学。旅行用トランクの仕切

                                  内藤多仲 - Wikipedia
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                                  「アス アサ イヅ 四ジ ジシンアル ムクヒラ」 電報を受け取った科学者は気にも留めなかった。明けて翌日、科学者は戦慄することになる。 『伊豆地方大地震惨劇』死者及び行方不明者272名――。椋平青年の予言した通りの時間、予言した通りの場所だった。 調査に当たったある科学者は頭を抱える。 「彼自身を全て信じることは出来ない。だが、何かが、必ず何かがあるんだ」と。 So-called Mukuhira’s Arc 1930年(昭和5年)11月26日朝8時。 京都帝國大学の理学部部長、石野友吉博士は前日に用務員から受け取っていた電報をまじまじと観察した。 内容にはこうある。 『アス アサ イヅ 四ジ ジシンアル ムクヒラ』 発信局、天橋立局。発信日時は前日の11月25日。 発信時刻は午後0時25分、着信時刻、同日午後0時50分とある。 まぎれもなく、この電報はまぎれもなく前日に打たれ、石野の元へ

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                                  • 南海地震 - Wikipedia

                                    南海地震(なんかいじしん)は、紀伊半島の紀伊水道沖から四国南方沖を震源域とする巨大地震の呼称。南海トラフ西側でプレート間の断層滑りが発生する低角逆断層型の地震と考えられている[1]。 狭義の南海地震は1946年(昭和21年)に発生した昭和南海地震を指す名称である[2]が、広義には安政南海地震や宝永地震(南海トラフのほぼ全域が震源域)など南海道沖を震源域とする歴史地震も含まれ南海地震と総称される。さらに2001年の「東南海、南海地震等に関する専門調査会」設置以降は、土佐湾から紀伊水道沖を震源域として発生するとされる固有地震の名称としても使用されるようになった[3]。また、南海大地震(なんかいだいじしん)や南海道地震(なんかいどうじしん)と呼称される場合もある。 概要[編集] 時間予測モデルの隆起量のデータセットに用いられた高知県室戸市室津漁港。 室津港の南海地震時の隆起量を基にした予測モデル

                                      南海地震 - Wikipedia
                                    • 張衡 (科学者) - Wikipedia

                                      張衡を天文学者、渾天儀と地動儀の発明者として顕彰した中華人民共和国の切手(中国語版)(1955年発行) 張 衡(ちょう こう、78年 - 139年)は、後漢代の詩人、学者及び発明家。字は平子。南陽郡西鄂県(現在の河南省南陽市臥竜区)の人。太史令や尚書などを歴任した政治家である一方で、天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家としても優れた才能を発揮した。また文人としても優れ、賦や絵画の名品を残した。 経歴[編集] 西鄂県の没落した官僚の家庭に生まれた。父は早くに亡くなり、祖父張堪は蜀郡太守だったが、清廉な人柄だったため、祖父の死後張衡の家庭は貧しくなった[1]。子供の頃から司馬相如や揚雄などの文学を好み、10歳頃には制作した詩が人の称賛を得るようになっていた[1]。青年時代洛陽と長安に遊学し、5~6年の歳月を過ごした。実力者からの誘いもあったが、良き師や友人を得ることに努め、特に天文・数学

                                        張衡 (科学者) - Wikipedia
                                      • 人の不幸を避けるために嫌われる勇気はあるか 批判覚悟で関東大震災を予見した今村明恒に学ぶこと - 死ぬまで生きる問題

                                        人の不幸を避けられるならその力になりたい。 それは多くの人は思うであろうことです。 では、自分が嫌われる、嘘つき呼ばわりされる状況でも人の不幸を避けるために行動できますか。 かつて日本で発生した未曾有の震災、『関東地震(関東大震災)』、『東南海地震』『南海地震』。 これらを予見した今村 明恒(いまむら あきつね)という日本地震学者がいた。 しかし、彼がはじめて地震の発生を予想し、警戒を呼び掛けてもそれを理解する人はほとんどいなかった。 それどころか「いたずらに人心を惑わしている」として「ホラ吹きの今村」と呼んだのだ。 それでも今村 明恒は地震のの危険性を人々に訴えることをやめなかった。 結果的に今村 明恒の予想が当たってことで、人々は大震災発生後、地震対策を行うようになった。 この話を聞いたとき、私のなかで一つの醜い感想が頭に浮かんだ。 「もし、俺が今村明恒の立場だったら、心のどこかで地震

                                          人の不幸を避けるために嫌われる勇気はあるか 批判覚悟で関東大震災を予見した今村明恒に学ぶこと - 死ぬまで生きる問題
                                        • 慶長三陸地震 - Wikipedia

                                          慶長三陸地震(けいちょうさんりくじしん)・慶長奥州地震は、1611年12月2日(慶長16年10月28日)、現在の青森県、岩手県、宮城県を襲った地震。慶長奥州地震とも呼ばれる。震源や地震の規模については諸説ある(詳細は後述)[注 3]。 概要[編集] 発生時刻は、『政宗君記録引証記』には1611年12月2日(慶長16年10月28日)、巳刻過ぎ(10-11時頃)、『慶長日件録』には午刻(12時頃)、『言諸卿記』には辰刻(8時頃)大地震とあり、史料によるバラつきが大きい。また『武藤六右衛門所蔵古文書』には「大地震三度仕」とあり、3度大きく揺れたことになり、午前中に複数回の大地震が発生したと解釈できる[3]。 津波襲来時刻は、『宮古由来記』では昼八ツ時(午後2時頃)に大津波(現地時間)と記録され、『小本家記録』は昼七ツ(15時頃)とある。当時、日本を探検中のビスカイノらも、奥州沿岸の測量中に地震と

                                            慶長三陸地震 - Wikipedia
                                          • 関東地震 - Wikipedia

                                            関東地震(かんとうじしん)は、1923年(大正12年)9月1日に南関東を中心に発生した巨大地震であり[10][11]、関東大震災を引き起こしたことで知られる[12]。関東大地震(かんとうおおじしん、かんとうだいじしん)とも呼称される[13][14][15]。 なお、元禄16年(1703年)の地震も本地震と類似のメカニズムで起こったと考えられており、本地震を大正関東地震、1703年の地震を元禄関東地震と称する場合もある[16][17][18]。また、これらの地震は相模トラフのプレート境界に沿って発生したと考えられており[19]、相模トラフ巨大地震とも総称される[20][注 1]。 概要[編集] 本地震のメカニズムは、金森博雄(1971)のモデルによれば、震源域は三浦半島の延長線方向の相模トラフの走行に平行する右横ずれの低角逆断層とされる[6][22]。武村雅之(1996)も、P波の初動分布に

                                              関東地震 - Wikipedia
                                            • 慶長大地震 - Wikipedia

                                              慶長大地震(けいちょうおおじしん)は慶長年間(1596年 - 1615年)に日本列島で起こった地震。慶長の大地震(けいちょうのおおじしん)ともいう。ただし、正確には慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震発生は文禄5年であり、その後、これらの天変地異を期に文禄から慶長に改元されているため、歴史年表上では慶長元年となる。 なお、1596年の3つの地震は記録の日付が錯綜しており、慶長豊後地震発生の日は9月1日[1]、9月4日説[2]、あるいは両方に起こったとするものもある[3]。また、1605年の慶長地震は定説であった南海トラフが震源ではないという異論も出され[4][5]、さらに従来三陸沖が震源とされてきた1611年の慶長三陸地震も北海道太平洋沖に震源を持つ超巨大地震との説が出されるなど[6]、震源域に諸説あって不明なものも多い。 慶長年間の主な地震[編集] 発震日時は全てグレゴリオ暦。 慶長

                                              • 地盤沈下 - Wikipedia

                                                地盤沈下(じばんちんか)とは、地盤(地表面)が収縮や陥没により相対的に沈む現象[1][2]。堆積盆地の沖積層[3]における地盤沈下は世界中のどこでも発生する[4]。 地盤沈下の例 地盤沈下であっても主に水を含む帯水層の体積はそれほど変化しない。地下水の過剰な汲み上げによって帯水層(1)に接する粘土層のような強固な構造を持たない難透水層(2)の中の地下水が帯水層へ移動することで、難透水層の体積が減少し地面が沈下する。 A:沈下量 B:抜け上がり量 概要[編集] 地盤が沈む原因には自然現象によるものと人類の経済活動にもとづく人為的作業によるものがある[1][2]。建築物や農業に被害を受ける。地盤沈下は、海抜ゼロメートル地帯を発生させる広域の沈下現象と、土木工事等による局所的な沈下現象とがあり、一般的には広域の沈下現象を、公害の1つとしている。 人為作用による広域の地盤沈下は、工業用水[5]・農

                                                  地盤沈下 - Wikipedia
                                                • 寺田寅彦の伝説の警句 天災は忘れた頃に来る

                                                  このページの内容 「天災は忘れた頃に来る」という言葉を言い出したのは寺田寅彦であるといわれています。寺田寅彦は現在においても人気者であり、寺田寅彦随筆集(岩波文庫)を新たに入手すると、例えば、第一巻は2002年5月第86刷発行」となっています。また、「松本哉著 寺田寅彦は忘れたころにやって来る 集英社新書 2002」のような本が出版されるのも相変わらぬ寅彦の魅力のためと思われます。 寅彦に関する文献を抜粋引用し、地震・防災の原点を探ってみます。 寺田寅彦 伝説の警句 随筆中の災害や防災 関東大震災と寅彦 明治11年(1878)誕生、昭和10年(1935)没。享年58歳。 大正12年(1923)45才の時、関東大震災に遭遇し、火災旋風などの調査に従事する。随筆集「冬彦集」を出版した年である。 学校 ・・・・・・・・・ 高知と東京の小学校、高知の中学校、熊本の第五高等学校、東京帝国大学 肩書き

                                                  • 島村英紀が撮っていた歴史的な写真

                                                    1-1:1963年4月。東京・千代田区大手町。当時の気象庁屋上から東を撮った新設工事中の首都高速道路(神田橋インター付近) 当時、気象庁は現在の竹橋会館(現在の気象庁から道を渡った北西側。公務員共済組合連合会, 別名KKR東京)のある場所に本拠があり、この写真下方に写っている敷地にも、平屋や2階建ての、いくつかの建物があった。 こちらの敷地に現在の本拠である8階建ての気象庁の新築が始まっていた。 工事中の首都高速道路の後方には、池袋から水道橋を通って数寄屋橋に行っていた17番の都電が見える。元の写真では、高速道路の橋梁に川崎重工と書いてあるのが読みとれる。 (撮影機材はNikon S。レンズはNikkor 35mmf2.5。フィルムはフジ・ネオパンSS) 1-2:2004年3月の同じ地点での写真。 首都高速道路は、毎日慢性的に渋滞が続いている。上の写真に見える都電は、とっくの昔に撤去されて

                                                    • 知ってるつもり?! - Wikipedia

                                                      『知ってるつもり?!』(しってるつもり)は、1989年10月8日から2002年3月24日まで日本テレビ系列局で毎週日曜21:00 - 21:54(JST)に放送されていた人物系ドキュメンタリー教養番組である。1996年から2000年9月まではCS★日テレでも放送されていた(ただし権利関係の問題で、回によっては別の番組に差し替えられることもあった)。 概要[編集] 毎回歴史上の人物を取り上げて紹介していた。大半がその人物の生涯を振り返るものであったが、中には番組放送当時にも現役で活躍している人物を取り上げることもあった。杉原千畝やマルセル・ジュノー、中村久子など、当時は一般にはあまり知られていなかった人物の功績や活躍を取り上げることもあった。取り上げる内容については、一般的に認知されている事柄以外の意外な一面をクローズアップするようにしており、意外性の少ない人物については強引な構成となること

                                                        知ってるつもり?! - Wikipedia
                                                      • 地震予知 - Wikipedia

                                                        地震予知が可能となった場合のメリットや生じるであろう問題を論じる試みは、地震予知に楽観的な見通しがあった1970年代以降に行われた。 日本では、大規模地震対策特別措置法が制定された1978年(昭和53年)前後に、警報に伴う混乱の問題が議論されたほか、静岡県は被害想定の中で予知された場合と予知されなかった場合の経済損失や人的被害を明記している[24]。 アメリカ合衆国では、1975年にアメリカ科学アカデミーが発行した報告書『Earthquake Prediction and Public Policy』[注 3]の中で、メリットとデメリット、公平性の問題、法的問題や経済的問題などが詳しく検討されている。この報告書では、ある仮定に基づいて行われた推定ではあるが、予知情報が発表されることで、経済活動が低下したり、地価が下落したり、住宅に対する損害保険の機能が低下して加入制限等に至ったり、地震が予

                                                        • 昭和8年三陸大津波と防潮林造成計画

                                                          佐藤賢一の中の人 @ke_1sato 津波対策として大々的に「防潮林」がクローズアップされたのは、昭和8年の三陸津波直後からであるように思われる。政府は昭和8年度内に津波災害予防調査費として2万円を計上、その内、1万円を防潮林造成調査費に充てている。調査関係者には本多静六(林学)・今村明恒(理学)らがいた。 2014-06-10 23:28:16 佐藤賢一の中の人 @ke_1sato 昭和10年刊行の宮城県『宮城県昭和海嘯誌』には、防潮林の効用として次のように述べられている。 「防潮林は、其の材木実に弾力性に富み、幹枝円形なるを以て、甚だ有利なる条件の下に海嘯の来襲に対抗し、或は其の水平速度を減殺し、。。。」→ 2014-06-10 23:30:30 佐藤賢一の中の人 @ke_1sato →「或は、其の幅員にして充分大ならんか、後方部は単に浸水の形となりて、被害は言ふにも足らざる程度に止ま

                                                            昭和8年三陸大津波と防潮林造成計画
                                                          • 白鳳地震 - Wikipedia

                                                            西暦換算に関する注意 1582年以前に発生した日本の地震の西暦換算については、ユリウス暦であるか、グレゴリオ暦であるかを明記してください。Wikipediaの表記ガイドでは原則としてユリウス暦で表記することになっていますが、『理科年表』など多くの文献ではグレゴリオ暦表記となっており、混乱を避けるために注意が必要です。 詳細は日本の歴史地震の西暦換算を参照してください。 『日本書紀』巻第一の写本, 京都国立博物館蔵, 白鳳地震は巻第二十九. 白鳳地震(はくほうじしん)は、白鳳時代(飛鳥時代後期)の天武天皇13年10月14日(ユリウス暦684年11月26日)に起きた巨大地震。南海トラフ沿いの巨大地震と推定されている。 南海トラフの巨大地震と推定される地震の確実な記録としては最古のものである。白鳳の大地震(はくほうのおおじしん)、白鳳大地震(はくほうおおじしん)[1]、あるいは天武地震(てんむじ

                                                              白鳳地震 - Wikipedia
                                                            • 今村明恒 - Wikipedia

                                                              今村 明恒(今村 明恆、いまむら あきつね、1870年6月14日〉明治3年5月16日〉 - 1948年〈昭和23年〉1月1日)は、日本の地震学者。東京帝国大学教授、日本地震学会会長。学位は理学博士(1905年・文部大臣)。 生涯[編集] 1870年、現在の鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士・今村明清の三男として生まれる。 鹿児島高等中学造士館予科、第一高等中学校卒業。1891年、帝国大学理科大学物理学科入学。帝国大学大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となる。1896年からは陸軍教授を兼任し、陸軍参謀本部陸地測量部で数学を教えた。明治三陸地震発生を期に、1899年に津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱した[1]。現在では広く受け入れられている説であるが、発表当時はほとんど受け入れられなかった。1905年(明治38年)4月10日、文部大臣から理学博士の学位を授与される[2]。 明恒は、

                                                                今村明恒 - Wikipedia
                                                              • 歴史地震 - Wikipedia

                                                                1755年のリスボン地震による災禍を伝える銅版画 (en) 挿絵/同年の作。 安政の大地震絵図/1855年に発生した安政江戸地震による災禍を伝えている。 日本の岩手県宮古市にある大津浪記念碑/1933年(昭和8年)に発生した昭和三陸地震の教訓を永く後世に伝えるべく同年に建立された災害記念碑。 歴史地震(れきしじしん)とは、歴史時代に発生した地震のうち、地震計を始めとする近代的観測機器が存在しなかった時代に属するもので[1]、なおかつ、記録で確かめられるものをいう。それらは、古文書や災害記念碑という形で今日まで伝えられてきた。英語には "historical earthquake" という語 (cf. en) があるが、日本語の「歴史地震」よりやや広義かも知れない。 日本語(専門用語)「歴史地震」において定義されている「歴史」は、記録された人間社会の出来事の変遷を指すため、時期的に該当してい

                                                                  歴史地震 - Wikipedia
                                                                • 地震予知をした戦前と戦後の二人の「今村」さん - 歴史ニュースウォーカー

                                                                  ロシアの隕石の映像は、映画「アルマゲドン」を思い出した人もいると思いますが、恵美嘉樹は同じ頃に同じネタで公開された「ディープインパクト」を思い出しました。 ディープ・インパクト [DVD] 出版社/メーカー: パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン発売日: 2009/04/10メディア: DVD クリック: 33回この商品を含むブログ (16件) を見る 小さすぎる隕石は把握できないものの、ある程度の大きさの小惑星なら落下の有無が予測できるすごい世の中になっても、いまだ地震の予知だけはうまくいっていません。 地震の予知は不可能とする地震学の研究者もいます。 3・11を予測したとして話題になっていた電磁波による予知は、いま、無料で公開されていますが、ただ、そのサイト「ハザードラボ」でもみずから「確実ではない」とうたっています。 地震はむかしからあるので、当然、陰陽師はじめ、予知し

                                                                    地震予知をした戦前と戦後の二人の「今村」さん - 歴史ニュースウォーカー
                                                                  • 松山基範 - Wikipedia

                                                                    松山 基範(まつやま もとのり、1884年10月25日 - 1958年1月27日)は、日本の地球物理学者・古地磁気学者。山口大学初代学長。能楽師。京都大学名誉教授。理学博士(1918年)取得。 来歴[編集] 大分県宇佐郡駅館村大字上田(駅川町を経て現宇佐市)の曹洞宗の寺院雲栖寺の住職であった墨江天外と末原コウの間に出生。当時は、僧職の妻帯は認められていなかったため母の姓を名乗り、1896年に父が山口県豊浦郡清末村(現下関市)の高林寺の住持になると、姓を父方に改めた。少年期を過ごし両親の墓も存在する同地には現在顕彰碑が建てられている[3]。 1898年清末尋常小学校高等科を卒業後、山口県尋常中学校豊浦分校に入学。翌1899年山口県立豊浦中学校として分校から独立し、1903年に同校を卒業。広島高等師範学校に進み教鞭を執る志田順と知遇を得る。 師範学校卒業後、徳島県阿南市富岡中学校で1年教師を務

                                                                      松山基範 - Wikipedia
                                                                    • 公開中 作家リスト:全て

                                                                      ア アーヴィング ワシントン (公開中:16) アークム フレデリック (公開中:1) 愛知 敬一 (公開中:1) 会津 八一 (公開中:12) アイプ・ロシディ  (公開中:1)  *著作権存続* アインシュタイン アルベルト (公開中:1) 饗庭 篁村 (公開中:3) 青木 栄瞳 (公開中:1)  *著作権存続* 青木 正児 (公開中:1) 青空文庫  (公開中:1)  *著作権存続* 青野 季吉 (公開中:1) 青柳 喜兵衛 (公開中:1) 秋田 雨雀 (公開中:1) 秋田 滋 (公開中:7) 秋月 種樹 (公開中:2) 芥川 紗織 (公開中:5)  (→間所 紗織) 芥川 多加志 (公開中:1) 芥川 竜之介 (公開中:379) 浅井 洌 (公開中:2) 朝倉 克彦 (公開中:1)  *著作権存続* 浅沼 稲次郎 (公開中:4) 浅野 正恭 (公開中:1) 浅野 和三郎 (公開中:

                                                                      • でんでん - Wikipedia

                                                                        報知映画賞 助演男優賞 2011年『冷たい熱帯魚』キネマ旬報ベスト・テン 助演男優賞 2011年『冷たい熱帯魚』毎日映画コンクール 助演男優賞 2011年『冷たい熱帯魚』TAMA映画祭 特別賞 2011年『大鹿村騒動記』 2016年『ディストラクション・ベイビーズ』 でんでん(本名:緒方 義博(おがた よしひろ)、1950年1月23日 - )は、日本の俳優、元・お笑い芸人である。福岡県筑紫野市生まれ、水巻町育ち[1]。アルファエージェンシー所属。 来歴[編集] 高校卒業後、19歳の時に渥美清に憧れ、弟子入り志願のために上京するが、本人には会えず断念[2]。しかし東京に居れば何かしらチャンスが巡って来ると信じて帰郷せず[2]、遠い親戚で丸井に勤めている人のツテで、夏場にあった丸井の就職試験を受けて、丸井に就職。丸井で4年ほど、下北沢→池袋→横須賀と転勤しながらサラリーマンとして働く[2]。

                                                                          でんでん - Wikipedia
                                                                        • 今こそ振り返りたい関東大震災の「予知」論争 「ホラ吹き」呼ばわりされ、無視された今村明恒の警告 | JBpress (ジェイビープレス)

                                                                          強い地震に見舞われたイタリア・アマトリーチェで、がれきの上に座る被災者ら(2016年8月24日撮影)。(c)AFP/FILIPPO MONTEFORTE〔AFPBB News〕 午前3時36分(現地時間)、イタリア中部のペルージャ県ノルチャの南東約10キロメートルを震源とするマグニチュード6.2の地震が発生。震源の深さが約4キロメートルと浅かったため、就寝していた多くの住民が倒壊した建物の下敷きとなった。地震による死者数は29日までに292人に達し、余震の回数は1800回を超えた。 またミャンマーでは午後4時4分(現地時間)、最大の都市ヤンゴンの北西約500キロメートルを震源とするマグニチュード6.8の地震が発生し(震源の深さは約84キロメートル)、世界的な仏教遺跡のパガンが大きな被害を受けた。 2つの地震は8000キロメートル以上離れた場所で起きたものだが、地震の規模は似ている。2つの地

                                                                            今こそ振り返りたい関東大震災の「予知」論争 「ホラ吹き」呼ばわりされ、無視された今村明恒の警告 | JBpress (ジェイビープレス)
                                                                          • 島村英紀の ホームページ

                                                                            ENGLISH TRANSLATION (先年までは「英紀」がEnglish Periodになったりして、本人も仰天していたのですが、まだ滑稽ながら、機械翻訳も少しずつは進歩しているようです) 最終更新日 : 2024年2月28日 島村英紀 (しまむら ひでき) 地球物理学者。日本文藝家協会(日本文芸家協会)会員(日本文藝家協会とは) よくいらっしゃいました。あなたは1999年9月の開設以来 人目のお客様です。 ことしは開設以来23年目になります。 ●メインのページはこちら(*)ですが、そのほかに、 ● ミラーサイト1(携帯サイトへの自動変換が可能)とミラーサイト2(*)の二つのミラーサイトの運用をしています。背景のシボシボがない方がいい方は前者のホームページをご覧ください。 それぞれのサイトは技術的な理由から、更新が遅れることがあります。 なお、(*)のサイトでは、ホームページにあるpd

                                                                            • 『週刊ミルクティー*』の活動について

                                                                              はじめに 今村明恒「火山の話」(『週刊ミルクティー*』第3巻第29号所収)を紹介・掲載してもらうべく、「マガジン航」あてにメールを出したところ、さっそく編集人の仲俣さんから「なるべく、当事者の言葉で語っていただくことにしている」「たんなる情報の掲載は極力しない」という返事がもどってきた。「単発のコンテンツの紹介はしずらい」、「サイトを拝見するかぎり、全体像がよくわからない」ともある。 ひとつひとつ反論したい衝動にかられる。見当ちがいの依頼に見えるかもしれないが、考えがあってのことなんですよとも言い返したい。……が同時に、「全体像がよくわからない」という感想は率直な意見だろうとも思い直す。サイトを訪れた多くの人たちが同意見なのかもしれない。作っている作品や内容には自信がある。にもかかわらずページのカウンタや販売成績が伸び悩んでいる原因は、作り手のひとりよがりの可能性が高い。作ることに集中しす

                                                                              • 三松正夫 - Wikipedia

                                                                                この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2024年3月) 出典は脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2024年3月) 出典検索?: "三松正夫" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 昭和新山と三松正夫像。三松正夫が愛した昭和新山に観測器具を構えるようにして像が建立されている 三松正夫記念館(昭和新山資料館) 三松 正夫(みまつ まさお、1888年(明治21年)7月9日 - 1977年(昭和52年)12月8日)は昭和新山の成長を記録したアマチュア火山研究家。郵便局長。 人物・生涯[編集] 北海道伊達町(現・伊達市)に生まれる。北海中学を中退後、有珠郡壮瞥町の壮瞥郵便

                                                                                  三松正夫 - Wikipedia
                                                                                • 幻想諸島航海記/瓜生島

                                                                                  目次 はじめに [上]瓜生島伝説 「海に沈んだ島」の伝説 様々な「瓜生島」 神像を赤く塗ると…… 瓜生島はインドにあった?! 103年間の空白――『豊府聞書』 瓜生山威徳寺と瓜生島道場――『豊後国志』『威徳寺由来記』 増殖する伝説――『雉城雑誌』 瓜生島古地図の謎――『豊陽古事談』『瓜生島崩の由来』 『上記』を巡る問題 [中]別府湾を襲った大地震 文禄5年閏七月の大地震 戦国大名大友氏と国際貿易港「沖ノ浜」 大友氏の没落と府内城主の変遷 「大波ゆり上、居宅海中となる」――『柴山勘兵衛記』『津山氏世譜』 「あらゆるものが海に変わったように思われた」――『イエズス会日本年報』 「一つの町は水びたしになって、人家は跡形もなくなった」――『日本王国記』 「4000世帯の町が海中に沈んで、生きとし生ける物は皆助からなかった」――『コックス日記』 「沖ノ浜」と「瓜生島」のあいだ 「久光島」は瓜生島のク