松陰はこの文書の中で、日本人が外国に渡航することは厳禁されており、もし露見した場合は死罪に処されることは疑いないので、もし貴下がわれわれの願いを受け入れて下される場合は、出航されるまでわれらの事はくれぐれも内密に願いたい。そして、最後に 閣下らが同意せられることを信じ、余らは明夜万物静寂に帰したる後、小舟に乗り込みて、人家なき柿崎の海岸近くに赴くべし。この地に於いて貴下らが余らと会見せられ、余らを連れ去り、かくて余らの希望を実現せしめられんことを切に希望するなり。 (同上書 p.60 ) と結んでいる。そして松陰らは、その日の夜に実行に及んでいる。 松陰らはなぜ米艦に乗り込むことを許されなかったのか 松陰らは柿崎の海浜に漁舟を見つけ、翌日の深夜二時ごろから漕ぎ出してボーハタン号にたどり着き、通訳のウィリアムとの面談を果たしている。同上書によると、ペリーは部下からの報告を受け、二人を艦内に匿